自分を許していこう


 ああー私はずーとこの心を救えない人間でした。今までのことを振り返ってみれば全てに責任転化してこの心が苦しいのはお前達のせいだと喚いていました。

 私の心が平安にいられるかどうかはすべてお前達の私に対する接し方にかかっているのだ、その接し方によって私の心は幾重にも転がってしまう、だから私の心を揺さぶるようなことはしないでくれ!!
 相手をコントロールすることでこの心の平安を保とうとしてきた私がおります。

 この心を一番夫と子供達に使ってきました。私が機嫌を悪くしないように気を付けなさい、私という人間は心が壊れやすくできているのだから私を刺激するようなことはしないこと、−少しのことでも敏感に反応してしまうのだからその責任は取ってちょうだい−と回りに要求してきました。でもそれが当然と思っていました。なぜなら私もこのように両親に教えられてきたからそのことに何の疑問も湧かずに両親や兄姉の機嫌を伺いながら共に暮らしていくものだと思ってきました。そして私としてはこの気使いを回りに充分過ぎるほどやっているつもりでした。勿論、夫と子供達以外の人たちに対してでしたが。

 自分の心は回りの人たちの言動、行動に左右されるものだと思い込んできました。自分の心が喜ぶのも沈んでいくのもまわりのせいだと思ってきました。でもこの学びに出会って頭ではそれは間違いだと分っていました。それが分っていてもなかなか心で気付けるものではありませんでした。自分から出てくる闇は自分でしか供養できないとあれほど頭に叩き込んだとしても私のやってきたことはその闇を相手に投げ付けて−責任とれれれ−と喚いているだけでした。

 自分の闇を相手に投げ付けていることが肉の次元では相手に責任を背負わしているなんて思ってもいません、ギィブアンドティクの発想で責任の所在を主張したまでだと豪語する自分が見えてきます。

 その心の行き着く先は終には自分が究極の赦しまで相手に要求してしまっていることにも気付けなくなってしまいます。相手を呪うことで自分を正当化する道を選んでしまいます。でもその心が苦しいとは分っていながらその迷路に嵌まっていることには気づけません。

 責任転化をしいている自分に気付けませんでした。どういうことが−責任転化−なのかほんとに分っていませんでした。

 私の存在を脅かすのはいつでも回りだと思っていました。この壊れやすい繊細な心を傷付けるようなことが起こってはいけないそしてまた自分も回りに対して人の心を傷つけないよう気をつけなければならない、なぜなら心とは回りによって良くも悪くもなってしまうものだと思っていましたから。

 私は自分の心の管理というものを人任せにしようとしてきました。全ての責任は自分だというのにそのことを人任せにしようとしてどうにもならないと嘆いていたのです。

 自分から出る闇の責任は自分で受けていくものだと頭では分っていながらこの心に刻んでいくことができませんでした。

 心が揺れ動いていく様を辿っていきながらしっかりと相手を責め裁く心を出しながらそのことを無視し続けどこまでも相手に責任を擦り付けようとしてきたのです。

 そんな簡単なことに今まで気がつきませんでした。

 闇が出てくる時、それは自分自身だと思えない私がいたのです。私の心に刃を向ける相手がいるからそれに応戦するまでだと思ってきたのです。

 相手が私の心を無責任に挑発するのであれば私のとる行動がたとえ相手を傷つけたとしても私には何の責任もないと思っていました。

 私の相手に対する行動の基準はいつでも相手を基準に設定されていたのでした。そして責任も相手だけが取って然るべきものでした。

 なんと自分を疎んじてしまったことでしょう、この事に気付かなければ私は永遠にこの心を救えなかったのです。この心を救ってやれるのはこの私ひとりだけだったのです。

 この心を蔑ろにした私は今その責任の重さを痛感しております。こんなに長い間この心を無視し続け誰かに救って欲しいと叫んでいた自分が恥ずかしいです。

 苦しんでいる私が間違っていました。−苦しい−と叫ぶ心の求めるものは果てのない責任転化に救いを求めているようなものでした。それは永遠にこの心が救われることのない終わりのない旅を続けているようなものでした。

 自己責任のほんとうの意味を分っていきたいです。


 このところ許せない心と格闘してきました。頭で(間違っている)と思いこませようとしても心が納得できません。自分の心の奥を見ずして相手のせいにして正義を盾に恨み呪いの心を膨らませていました。知らぬ間に念じて呪っていました。この心を納得させるのには相手のせいにして自分を正当化する方法しかなかったのです。振り返れば過去何度も何度もこの心を使っていました。同じような場面が思い出されます。私も相手の言動で自分の心がずたずたになると思ってきました。本当に基準が相手、肉でした。相手が蔑ろにすると怒っていました。自分を蔑ろにしていたなんて気がつきませんでした。この凄まじいエネルギーを知っているから、私は人に恨まれないようにこの心を向けられないように言動に気を使ってきました。自分を許していこうを読んでもう一度、相手ではない全て自分だということを確認して行こうと思いました。


 心をみてゆくことは、自分の心をみてゆけることは、本当にうれしいです。自分で自分がすくわれてゆきます。本当に、全ての答えが、自分の心の中に存在していました。何もかも外に外に向けてきた、原因も神も外に外に求めてきたことが、正反対だったことに気づかされます。

 そして、私の中で、私が優しい思いを向けてくれることを待って待って待ち続けていた無数の意識たち。その意識達は本当に喜んでいます。私とアルバート、本当にその世界だけだったんだと思います。アルバートを信じ、アルバートに語り、アルバートを大切にしてゆきたいです。そして、愛してゆきたいです。

 250年後、私もアルバートと出会います。ものすごい憎しみ、恨み、渾身の思いで、殺してやるーって、けれど、同時に、出会いたかった、会いたかった、会いたかった、ありがとう、ありがとう、うれしい、ものすごい喜びがふきだしてくることも、感じます。

 私達は意識だった、その事実、その真実が、私達の心の世界を、変えてゆきます。田池留吉との出会い、アルバートとの出会い、その出会いが、どれだけのかけがえのないものだったか。本当に、ありがとうだけです。


 心なんて知らなかった、心なんて見えなかった。この学びで意識意識と聞く度にいったい意識って何だろうと思いました。それは何か凄いことで特別な力なのだと思いました。五感に感じる肉の世界は実感が有りそれが自分と信じてました。そこに作り上げた様々な思いはズッシリと息もつけないほど重かった。それはまるで何億年も闇の甲羅を背中に乗せヨッチヨッチと喘いで生きてる亀でした。押し潰されそうな甲羅の下で手足を踏ん張り必死で生きてきた私です。心に気付く余裕などなかった、心を見れる状態などではありませんでした。息も付けない有様で、そこから抜け出ようとひたすら肉の努力に生きました。見ても見えず聞いても聞こえず、寂しさが悲しさが伝えてる意味などその私に分かろうはずもありません。肉どっぷりの私には苦しみは自分を美化し相手を悪者にする道具でした。
 でも最近やっと苦しい自分が見えてきました。苦しみを悪だと思ってきた私が、今はやっと苦しみが見えてきたと喜んでます。カチカチに固まってた心に隙間が出来て空気が通る感じがします。苦しいと気付くことさえ出来なかった今までを思う時、苦しいと思う今の自分がとても嬉しい。霊道や意識は特別でもパワーでもなくそれは私たち本来の姿なのです。やっと自分の思いを見ていこうとしてる自分がいます、自分の中に安らぎを見てる自分があります。内在するアルバートを信じそれに戻って行こうとしてる自分を感じます。頭でそうだと理解してるのでなく、今は心から喜びの自分に戻っていこうとしてる自分が有って嬉しいです。


 肉に心が向き、それにとらわれたとき、心が苦しむことを体験します。それを恐れる心がありました。でもそれも心がアルバートを愛し信じ、アルバートとともに歩んでいこうとしたときに感じる喜びを、自分の心の中で体験していく、再確認していくうえで必要なことでした。本当に自分が歩んでいく道筋が、より鮮明に心に伝わってきます。本当に大事なものが、心に伝わってきます。アルバートはすべてを受けいれ愛し続ける存在であることが、そしてそれに向き合っていくには、私は意識ですという真実をふまえてしか、なりたたないのだと感じています。本当の幸せはアルバートを信じともに歩んでいく中で感じられ、それは何ものにも代えがたい永遠の喜びだったのだと感じています。

 悲しみ、怒り、自分を責めるとか、そんな思い全部が人が原因で出てくるのではなく、アルバートの目が浮かびました。なんて優しい目、身近にいながらこんなに優しかったなんて何故気づけなかったんだろう。田池留吉の目が浮かびました。日本、田池留吉、なんて懐かしい。お母さんのぬくもり、あたたかさ。そんな思いが次々と浮かんできました。うれしかったです。人ではない、自分に原因があるんだと素直に思い、反省していきます。


 HP「自分を許していこう」を読みました。浅く甘く己表わしたいだけの心が見えています。
 ただただこの肉表わしたいただそれだけの動機でセミナーに集っています。セミナーは己表わす場として利用しています。
 果てしない責任転嫁の思いを野放しにしたままです。なんにも心見ていない結果が目の前で現象化しています。心の管理をまったく疎かにしている結果の現象化です。
 否定したい思いがいっぱい出てきます。正当化したい思いが溢れ出てきます。これらの思いを許せない厳しい私があります。
 UTA会・・・自分を許していきたいです。


 先生の手の動きを見ていて、アルバートを思いました。アルバート、アルバートと思っていると、私が求めてきた愛は偽物の愛、エゴ丸出しの愛を私はこんなにも求めて、そして苦しんできたんだと思いました。本当の愛があるのに、こんなにも偽物を求めて苦しんできた自分が、やっとその苦しみから解放されていくとても嬉しい思いを感じさせていただきました。
 そしてこんな愚かな私を来世、命懸けで受け入れてくれるお母さんがいることをこの心で感じ、本当にありがたく、そして今世のうちに少しでもお母さんの反省をやっていきたいとそのような思いが強く出てきてとても嬉しかったです。この心から母親を馬鹿にする思いを一つ一つ受け入れて供養していこうそんな思いにならしてもらいました。
 そしてこうして気付けた喜び、今までなら私だけがこんなすごい体験をしたって、特別意識でグッとでてくるのだけど、みんながこうして一つ一つ嬉しい体験を積んでいるんだなって、もっともっと嬉しい体験をしている人もいる、私だけが特別だと思ってきた自分の思いが見えてきて嬉しかったです。いつもなんか自分自分と思ってきた思いが見えました。そしてすっかり己偉い自分になっていることにも気付いていませんでした。少し気付けたら、少し嬉しかったら、もう舞い上がっている己偉い自分でした。そんな心も見えてきてとても嬉しいです。今は本当に自然に自分の心が見えてくることがとても嬉しいです。


 私の反省は、心見ることは封印することでした。封印するための、封じ込めるための反省、心見ることでした。
 心を見れば見るほど、瞑想すればするほど私はこの心に鍵を何重にも掛け封印してきていることに第2回UTA会セミナーで気付きました。
 己偉い思いを増幅させているだけでした。己正しい思いを不動のものとするための反省でした。
 なんでこんなに己表わしたいのか。肉を信じているからといえばそれまでだけど・・・肉を本物とする思いをどんどん膨らませていっているだけでした。
 なんでこんなに逆を行っているのか。先生がお伝え下さることを真剣に実践しているつもりでした。でもまったくしていないのです。
 HPにもありましたが先生が「ABC」と伝えて下さっているのを私は「あいうえお」としてきていることにやっとやっと気付けたセミナーでした。
 足かけ20年・・・長かった・・・。間違ったまま、その上己正しい思いを増幅させ不動のものにするための反省だったなんて思いがけない事実にショックを受けながらも安堵しています。何かしらあったかいです。
 UTA会は道標を信じ、何も考えず真剣に素直に実践するだけなんだと思いました。
 「何がなんでも一番!」と拳をかざし叫ぶ己表わしたい思いと一緒に何度も何度も転びながらずっこけながら楽しく心見てゆきます。


 心を見ていませんでした。自分の心をちっとも見ずにここまできました。この2回目のUAT会で その事がはっきりと見えてきました。私が一番 自分を蔑ろにしてきました。拒否し 冷たく 殺してきました。それは 他の誰のせいでもありませんでした。全てが自分の姿でした。なんと言う愚かな事を私はずっとしてきたのでしょうか。人のせいにし 責任を転嫁して 私は悪くないと言いつづけてきました。でも 私が私を蔑ろにしてきたことを知った時 自分に申し訳ない気持ちで一杯になりました。ごめんなさい。今まで 本当にごめんなさい。苦しい思い 憎しむ思い 呪いの塊 破壊の塊となって尚も まだ 苦しんでいる自分に優しい思い一つ 掛けられない私が どうして 何が出来ていると 今まで自分を誇ってきたのでしょうか。霊道は 自分を誇るためでも 自分を表わすためでもなく ただ こうして 自分の苦しい思いと対面し 優しい思いを向けていくための贈り物でした。三人の核の人が出たとき 羨ましい思い 私もああなりたい思いがでました。でも ずっと向けていると 母の思いが 母への思いが なんとも言えない 優しい思いが伝わってきました。私が捨てた思いです。私から切り離した思いです。私が拒否した思いでした。優しい優しいなんとも言えない思いが伝わってきました。きっかけがそれでした。誰よりも自分が自分に冷たくて 傲慢でした。自分が自分にこんなに愛しいと思った事は今までありませんでした。ごめんなさい。ごめんなさい。一度も 心を向けることがなかった。母を切り捨ててきたから。
 田池留吉のどこまでも優しいはそれだけしかない優しい思いを今までどれほど拒絶してきたか 自分が捨ててきたか。申し訳なかった。傲慢で 己を表わす事しか してこなかった。私の闇は 愛でした。私は自分に優しくなっていきたいと強く強く思いました。この心の中に小さく芽生えたこの思いを大切に大切にしていきたいです。そして 自分を許していきたいです。
 ああ ありがとう。全ての人にありがとう。嬉しいです。私にもありました。
 私には出来ない 私にはないと思っていた こんなに暖かい優しい心が 私にもありました。それは 核の三人の人たちがいてくれたから。そして何よりも 何所までも 信じてくれてる 母の思いがあったから。この母の思いは田池留吉から伝わってくる 故郷のメロディーと同じでした。遠くから 懐かしい懐かしい私が捨てた けれど一番求めていたものがそこにありました。ありがとう。ああ 静かに 静かにしみこんでいきます。先生 ありがとう。ずっとずっと信じてくれてありがとう。お母さん ありがとう。ああ 肉持てて よかった。私を生んでくれてありがとう。そして ごめんなさい。
 今まで 本当にごめんなさい。ありがとう。ありがとう。私はこれから 自分に起こる全ての現象を受け入れていこうと思います。約束します。それが私の生きる道だと 確信しました。母の全てをありがとうと受け入れていきます。己を表わしたい思いがむくむくと出てきます。けれど この思いをしっかりと しっかりと見つめて 優しい思いを向けていきたいと思います。
 今 私は 産まれて初めて 産まれてきて よかったと 心から そう言えます。私にとって先生との出会いは宝物です。ありがとう。ありがとう。


 瞬時に出る心は凄まじいです。その一瞬一瞬を心を見ずにずっと生きて来た事を実感します。でも その瞬間 じっと心を見つめれば怒りの塊が破壊となって 本当の事を忘れた自分が暴れまわっています。怒ることでしか 破壊することでしか自分の苦しさを訴えられなかった 自分がはっきりと見えてきます。
 暴れまくり お前らなど 死んでしまえと 苦しみをどうしていいのか分らず 苦しみから逃れたいために必死なっています。ずっとずっとほったらかしにしてきました。更に上書きをしてきました。この暴れまくる自分の苦しみを思う時 愛しいというか抱き締めたくなりました。
 お母さん お母さん 本当は そうずっと呼びたかった。自分から捨てたから 今更 自分から呼べないって思ってた。けれど お母さんはもういいよ。もういいよ。苦しかったねと優しい優しい思いが伝わってくる。ごめんなさい。自分から 「そんなもんクソの役にもたたない」と吐き捨てたのに それでも 許してくれてる。
 その向こうから 故郷のメロディーがかすかに心に響いてくる。懐かしい。とても懐かしい。思い出せないけれど 優しくて暖かくて それは 私がこの手から離したものやけれど 懐かしい 優しい暖かい 私が求めて求めてやまなかったものが実は自分が捨てたものだとは 今まで気が付かなかった。心を見ると言う事をいかに怠り 侮ってきたか 自分に一番かわいそうな事をしていたのは誰でもないこの私でした。


 人の意識を受け 過去世を受け 名前や階級を出してきた。そして それを人に突きつけ 責めてきた。誇ってきた。そうできる 分る 霊道を誇ってきた。得意になってきた。「あんた 今 心を出したやろう」と言ってきた。それで 競ってきた。誰かが 過去世の意識を出せば負けるものかと 私もと出してきた。誰かの身分がよいなら 私もと出してきた。嫌いな人をこてんぱにするために 霊道を利用してこの学びを利用して 責めてきた。その間中 自分の苦しい心は置き去りでした。そうする 自分の心を見てると思っていたけれど 皆無だった。そんなことになんの意味も持たないのに 感じる事ができることを誇ってきた。誇ってるという事さえも分ってなかった。得意になって優劣をつけた。そして 自分の中でいつもいつも戦争をしてる。
 過去世や人の心が分ったところで 何の意味も持たないのに必死になってきた。自分を誇りたかったから。自分を表わしたかったら。自分だけが特別な存在でいたかったから。そうすれば 私から苦しみがきえると思ってきた。そうすれば 誰も私を責めたり 蔑んだりする人がいなくなるとおもってきた。そうなることが この苦しみからのがれられる方法だと思ってきた。けれど 実際は更に苦しみを作ってきた。分ったふりして 偉そうにして その心の中の苦しみを封じ込めてきた。静かにその思いを思う時 ずっとずっと ほったらかしにしてきた心が叫びます。お前など出てくるなと言い続けた 私の冷たい心。本当に分っていたなら そんなことに何の意味も持たない事がわかるのに 何にも分っていなかったからこそ 平気でできた。ごめんなさい。ずっとずっと ほったらかしにしてきました。無視してきました。自分が投げ掛けられたら 烈火の如く怒り呪う その心を 私は自分に向けてきた。うるさい!!と自分に言いつづけてきた。自分の心をおざなりにしてきて 偉そうに あなたはどうだ こうだ と言ってきた 私を許して下さい。申し分けなかった。それが 自分自身に投げ掛けてるとは思わなかった。ごめん。本当にごめん。自分と対面するために霊道は頂いたものでした。自分に優しくなっていくために 沢山の苦しんでる自分に伝えていくために頂いたものでした。
 ごめんなさい。本当にごめんなさい。間違って間違ってきました。凄まじい自分の心を感じる度に 霊道を誇ってきた思いを申し訳なく思います。自分と対話することなく 本当に馬鹿でした。お母さんをずっとずっと責めてきた。母の思いを捨てて 能力というもので 苦しみから逃れようとした。けれど 結果は同じでした。
 大きな 大きな間違いを犯してきたのだと思います。よかったね。よかったね。気付けてよかったね。と 心から響いてきます。ありがとう。足蹴にしたのに 捨てたのに 責めたのに 殺したのに 優しい優しい思いをいつもいつも向けてくれてありがとう。私の愚かな心で傷つけた人にごめんなさい。
 そして ほったらかしにしてきた 私に ごめんなさい。お母さん お母さん ありがとう。自分を見捨てたのは あなたではなく 私でした。
 ああ 響いてきます。故郷のメロディーが遠くから響いてきます。そんなに自分を責めなくていいよと言ってくれてるみたいに 小さい頃背中をぽんぽんとしてくれたみたいに もういいよ 許していこう。許していこう。そう言ってくれてるみたいです。ごめんなさい。ごめんなさい。苦しかった私よ ずっとずっと無視しつづけて 責めつづけてごめんなさい。
 けれど 今 私は その闇があることが 嬉しい。私に沢山の気付きを与えてくれる私がいて 今まで 本当に冷たかった私を許して下さい。のたうちまわり 血反吐を吐きながらも まだ 間違ってないと 怒る 憎しむ 呪う私の心に 私は 母の優しさを伝えたいと心から思います。ありがとう。お母さんありがとう。私に肉体をくれてありがとう。ありがとう。ありがとう。ありがとうって そこに理屈もなんにもないことをしりました。ただ ありがとう。心から自然に出てくるありがとう。自分と対話していきます。心を素直にさらけ出していきたい。それが 私に与えてもらった霊道であると 確信しました。今までごめんなさい。そして 本当にありがとう。


 肉の思いでたくさんの地獄を心に作ってきました。苦しみの中にこの肉を終えていった者達が悲痛の叫びをあげ、暗く苦しい中にある事を教えてくれます。皆自分でした。その地獄の中にいる自分を見る事が恐怖でした。見たくないとだだをこね、こんな地獄に私を追い込んだのは、こんな苦しい肉を与えたのは、と全てから逃げてきました。たくさんの暗い心で地獄を作りました。心を見たくありませんでした。地獄を這えずりまわる自分が許せませんでした。肥溜めの中にいる臭くて哀れな私を認めることができませんでした。
 そんな自分がたくさんの地獄の自分と共に今、田池留吉と出会って行く。今世の肉を通して意識の自分に帰っていくその流れを心に呼び戻して行こうとしている。嬉しいです。母を田池を捨てたのも自分なら、地獄に落ちたのも自分でした。間違い続けた私を待ち続けてくれた信と温かな思いに包まれて、地獄に落ちてきた過去世の叫びも私に愛をたくさん投げかけていたと知りました。
 全てが愛でした。地獄に落ちた事は恐怖ではなく愛でした。自ら地獄を作り出し、そこに入っていかなければ気付くことが出来ないほど愚かでした。地獄など存在しなかった。全てが愛だった。一人芝居の中にやっと愛の中にいる幸せな自分だったと思えます。これから、私が心に作ってきた凄まじい地獄に出会っていきます。たくさんの愛を投げかけてくれていた、本当の自分に帰りたがっていた心の叫び。それを闇だと嫌い、冷たかった自分を認めていく道を歩いていきます。
 ありがとうございます。意識の流れの中に田池留吉と出会い、来世に繋いでいく、大切な今を感じています。


UTA会セミナー風景

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