UTA会セミナーに参加しよう


 UTA会セミナーにはどなたでも参加できます。ただし、家族の方に参加することを反対されている方はご遠慮ください。また、借金までして参加することは止めてください。

 ☆ 初めてセミナーに参加される方は「意識の流れ」を必ず読み込んで置いてください。



セミナーの中心課題

 意識の転回 「私達人間は、肉ではなく、意識であり、永遠に存在するものである。」

 意識は心、思い、波動、エネルギーである。 意識は現象化する。
 意識は一つ、私はあなたあなたは私である。


実践項目

 1 自分の心を見る。

 2 お母さんの温もりを知る。

 3 自己供養をする。

 4 アルバートを感じ、信じる。

   日々反省と瞑想を重ねる。


点検項目

 1 他力の神々の実像、教祖・宗教的指導者等の実態

 2 人間の本質、自分の実像

 3 人生の目的、生まれてきた意義

 4 死後の世界、転生の実態

 5 アルバートの波動、田池留吉の宇宙

 6 250年後の感動的なアルバートとの出会い

 7 意識の流れ、UTAの世界

 8 四次元への移行


メッセージを読む


メッセージを聞く


 素直で優しく真面目でアルバートへの信を培う道をひたすらに進む友だちになってください。待っています。

 意識の流れを感じ、田池留吉、アルバートと共に歩いていく真実の道しかありません。決意し、勇気を出してこの道をただただ真っ直ぐに歩いていってください。私は一人でも多くの友との大いなる出会いを待ち望んでいます。

 自分は肉だと思い、肉が基準の人生を送る人々、未だに己一番、頑固の一生を通す方々は、無知とエゴと欲の濁流に流され、浮き沈み、ついには淵に沈んでいくことになるでしょう。地獄から出てきて地獄に戻っていく転生を繰り返すことになるのです。

 これからは本物と偽物がはっきりとしてくるでしょう。本当にアルバートを信じているものとそうでないものがはっきりとしてきます。本当の喜び幸せかそうでない喜び幸せか明らかになってきます。

 いよいよセミナーも終わりに近づいてきました。心をしっかり見ていってください。
  「私こそ神だ。私は選ばれしものだ。私は使命あるもの、特別な存在である。」などと思っている人々。他力の神々をしっかりといまだに持っている人々。私は間違っていない、私は正しい、私は素晴らしいとそびえ立っている人々。‥‥無知とエゴと欲そのままの人々。もうそろそろ間違ってきました、喜びですとなってください。待っていますよ。


 あなたは今、意識の流れを感じていますか。すべての意識はその流れの中にあります。あなたは意識の流れを知らないまま死んでしまってもいいのでしようか。私はあなたが真実の世界を知って本当の自分に出会い本当の人生を生きていっていただきたいと願っています。

 あなたにとって一番大切なものは何ですか。あなたは今何を一番大切にしていますか。生命ですか、財産ですか、家族ですか、仕事ですか、それとも国家ですか、地球人類ですか。あなたにとって大切なものは一つしかありません。それはアルバートです。あなたがアルバートとともにあることがすべてです。

 私がお伝えしたいこと、あなたが知りたいことは「意識の流れ」と核からのメッセージにすべて記されてあります。頭では分かっているのですがというのはまだまだということになります。心で分かってこそ初めて分かったということになるのです。

 アルバートを信じているかどうかだけです。いつも自分自身に問うてみてください。「はい」か「いいえ」のどちらかでいいのです。思いは現象化していきます。「喜び、幸せ、ありがとう」と。



核からのメッセージを開きましょう、読みましょう。
核からのメッセージを毎日開いて読むようにしましょう。
核からのメッセージは学びの指針となるでしょう。



核からのメッセージ


 意識の世界は、気付いたその瞬間から変わってきます。どれだけ長く学んでいても、気付きそして素直さがなければ、何も変わりません。意識は流れています。250年後に向けてその流れは着実なものです。

 今世、田池留吉と出会えた、セミナ−に集えたのは、それぞれが自分に用意してきたからです。特別だから選ばれたからではありません。ただ自分に自分が与えたチャンスということです。そしてそれを活かすのも潰してしまうのもまた自分です。特別とか選ばれたとか、そういう思いを根底に持っていれば、せっかくのチャンスを自らふいにしてしまう結果となるでしょう。
 皆さんの中には、たった一冊の本を読んだだけで分かるはずがない、自分達は長年学んできた、しかもセミナ−には数え切れないほど参加してきた、しかしこの程度だ、そんな自分達より分かる人が出てくるはずがない、そう思っている方がいらっしゃるかもしれません。
 果たしてそうでしょうか。私はこの本を通して心を250年後に繋いでいかれる方が必ずあると思っています。そしてそういう方々はそういう過程を経て、250年後の出会いがあると私は思っています。意識の世界とはそういうものだと思います。
 意識の世界は、気付いたその瞬間から変わってきます。どれだけ長く学んでいても、気付きそして素直さがなければ、何も変わりません。意識は流れています。250年後に向けてその流れは着実なものです。チャンスはみんなに平等に公平にあります。学んできたという実績は、自分が素直になって初めてプラスに反映されていくのではないでしょうか。


 真実に触れた私は、ただ本当のことを伝えています。それは、「意識の流れ」にみんな記されています。心を見ることと心で分かること、これ以外にあなたが真実の世界を知っていく手立てはないことをお伝えしています。

 私はこのようにして心に上がってくる思いを伝えさせてもらっています。嬉しいからです。真実に触れた私は、ただ本当のことを伝えています。それは、「意識の流れ」にみんな記されています。心を見ることと心で分かること、これ以外にあなたが真実の世界を知っていく手立てはないことをお伝えしています。
 そのことが分からない、何か他にあるのではないか、その心そのものが他力一色です。そのまま放置していれば、もうお分かりかと思いますが、自分自身を地獄の奥底から救い出すことは困難です。自ら地獄のもっと奥底へ沈んでいこうとしているからです。「そんなばかな、私は幸せになりたい、喜びを感じたい、私達はひとつでしょう、私はあなた、あなたは私だと言ってくれたじゃないですか、うそつき、私達をあなたは見捨てていくのですか」、こんなたわ言をあなたの心は言っていませんか。 セミナ−後、それははっきりしてきます。もっと言うならば、田池留吉の肉がなくなればなおいっそうです。事実上、今世の学びは終了しています。そして後はセミナ−終了と同時にそれぞれに委ねられていくだけです。
 私は今までと全く変わらず、ただ自分を見つめていくだけです。大宝の地に田池留吉がいる今も、そしてそうでなくなったときもどんな時も、自分の心でひとつひとつ確かめながら、肉の時間を全うしていくことだろうと思います。


 私の人生の中で、田池留吉との出会いがすべてであったことをすでに心は確認しています。喜びと幸せの中にある自分自身を確認し、その世界を肉の時間に縛られることなく、もう少し広げていきたいという思いが、これからの私の肉を動かしていくことでしょう。

 私は自分のために生きる喜びを心に深く感じています。自分の心を見ていく中で、その思いは最近よりいっそう強く感じるようになってきました。私のこの思いは時間を経ることで、より具体化してくると思います。
 今世の肉体時計を最大限に活用していきます。なぜ生まれてきたのか、何のために肉をもらったのか、そして自分の転生に思いを寄せるとき、今世のこれからの時間をどのように過ごしていくべきか、いえ自分自身がどのようにこれからを費やしていきたいか、心にその青写真が浮かび上がってきている最近です。
 この私自身の思いに、肉は従っていくだけです。肉を維持していくものはみんな用意しています。これからの我が人生をより密度の濃いものにしていきます。アルバ−トしかない我が人生を心ゆくまで楽しみたいと思っています。もちろん、このようにはっきりとその方向性を示すことができるのは、私はアルバ−トを感じアルバ−トを信じアルバ−トとともに生きているからです。
 私の人生の中で、田池留吉との出会いがすべてであったことをすでに心は確認しています。喜びと幸せの中にある自分自身を確認し、その世界を肉の時間に縛られることなく、もう少し広げていきたいという思いが、これからの私の肉を動かしていくことでしょう。その思いに沿って肉は存在していくだけです。心は非常に軽やかです。とても幸せです。


 意識の流れは、確かに目覚めを促す大きな流れ、それは温もりと優しさに他なりません。しかし、すべての意識を目覚めさせるというのではありません。というのは、その流れを拒否するあなたの他力どっぷりの心がどっかりとあるからです。

 私とあなたを繋ぐもの、肉では何もありません。肉には全くありません。あなたが本当のご自分に目覚めていけば、それが分かります。
 長く学んでこられたことには違いありませんが、それを肉の次元でとらえて、いかにも私達は親しいと思われている方があるやもしれません。全く錯覚です。肉はそれなりのおつきあいがあったかもしれません。しかし本当の仲間、ともに歩みともに生きていく仲間というのは、アルバ−トがあるかないか、アルバ−トを感じ信じているかどうかだけです。
 何度も繰り返しお伝えしていますが、意識の流れは、確かに目覚めを促す大きな流れ、それは温もりと優しさに他なりません。しかし、すべての意識を目覚めさせるというのではありません。というのは、その流れを拒否するあなたの他力どっぷりの心がどっかりとあるからです。それに早く、一日でも早く気付いてくださいとお伝えしています。みんな自分のことではないと心は素通りです。
 どんなに私はアルバ−トを信じています、アルバ−トの素晴らしい世界を感じていますとおっしゃっても、真実は曲げられません。宇宙の法はひとつです。法に逆らって存在し続けてこられた自分であったと、どこで気付けるかです。心に気付きがなければ、あなたの世界は何ひとつ変わっていないことを、自分の心で知っていってください。それに気付けるまで、あなたの地獄は続いていくでしょう。


 私はアルバートとともに生きている、存在しているのが本当の私だと実感しています。だから当然その思いを心に広げていくことが自分の喜びであり、幸せであるということになるのです。ごく自然です。

 アルバ−トとともに生きる人生を一日でも早くスタ−トしてほしいという思いだけです。自分の心を見て、自分の間違いに気付き本当の自分の思いに素直になれる、こんな素晴らしい時間を自らに与えてきた、これ以上の喜びと幸せがどこにあるのかと思います。
 私の心がとらえているアルバ−トの世界とは、何にも換えられないものだと私は表現してきました。アルバ−トの世界こそが現実の世界であると心で感じられない人には、このことは想像がつかないと思います。その方達は、ここにも私の心を癒すものがある、私に喜びと幸せと勇気、希望をもたらしてくれるものがある、口にこそ出しませんが心のどこかで思っているというか、心が握っています。
 だから飛び出せないのです。飛び出したいというのは欲だけです。本心は飛び出したくない、それはすなわち肉にこそ喜びと幸せがあると思っているからです。自分は肉だと思うから、その肉の喜びと幸せを求めるのは当然のことだと思います。
 私はアルバ−トとともに生きている、存在しているのが本当の私だと実感しています。だから当然その思いを心に広げていくことが自分の喜びであり、幸せであるということになるのです。ごく自然です。だから私は頑張ることも要らなければ、自分を縛ることも要らないのです。頑張って気張って我が道を行く、そんなしんどいことを私はしていません。ただ嬉しい、私は幸せ者だなあと思っているだけです。


 己を表す、自分を認めさせる、このエネルギーは根深いものがあります。田池、認めよ、我を認めよ、こう叫びながら、喜び、幸せ、アルバートとやってきたその心癖はそう簡単には修正できません。それが今は沈黙の状態であっても、いずれ時が経てば、むくむくと沸き起こってくるということを知っておいてください。

 何かを感じたいから、あるいはあそこに座れば自分の前がぱっと開けるに違いない、そのような欲ばかりの方とか摩訶不思議なものを求めている方よりも、前に出られることにより何かに気付いていける、そのような方向でご自分の勉強を進められている方に、波動の勉強のチャンスが回ってくればいいなあと私は思っています。
 何かに気付くというのは、ご自分が今心で感じ広げていると思われている世界がどんなちっぽけなものであるか、またはその方向がどれだけずれているか、それどころか自分はアルバ−トだと思っているものが全くそうでなかったとか、そういうことです。そういうことを心で感じられたならば、きっとその方は大変いい体験をされたということになると思います。
 己を表す、自分を認めさせる、このエネルギ−は根深いものがあります。田池、認めよ、我を認めよ、こう叫びながら、喜び、幸せ、アルバ−トとやってきたその心癖はそう簡単には修正できません。それが今は沈黙の状態であっても、いずれ時が経てば、むくむくと沸き起こってくるということを知っておいてください。
 教祖と信者のエネルギ−は根深いと伝えてきました。言葉を介して心と心が吸い付いていく過程を何度繰り返してもまだまだ懲りません。波動の世界が本当に分かってくれば、心の向け先の向こうにいるのは自分だけだと心で見えてくるのですが、その波動の世界が分からなければどうしようもありません。


 いくらでも軌道修正はできます。ただし、自分自身の気付きがなければ不可能です。心からの気付き、心からの懺悔、堕落してしまった自分の姿をはっきりとその心で感じられなければ、難しいです。

 アルバ−トの世界を広げているから肉も清廉潔白、俗に言う聖人君子だとは言っていません。肉なんて愚かです。ただし法に触れるとか皆さんに迷惑をかけるとか、誰が見てもおかしい、喜び、嬉しいと言っているのにその私生活は何だとか、そういう状態には絶対になりません。肉は極めてノ−マルです。逆に言えば極めてノ−マルだから、真実の世界を肉を持って知ることができるということです。真実の世界はそんな摩訶不思議な世界ではないからです。犬も猫も鳥たちもみんな知っている世界です。
 その人にカリスマ的なものを求めようとするその思いこそが、他力のエネルギ−にがんじがらめということでしょう。
 アルバ−トの世界はそのような世界ではありません。そういうブラックのパワ−を求め続けてきた過去からのご自分であったことに気付いてくださいと、田池留吉は平凡な肉を持ってきたのでしょう。
 そのことに気付けないまま今に至っている方は多いです。その心がチャネラ−を求め、また自らチャネラ−になることで学びが進んでいくと思い込み、どんどんどんどん本道をはずれていったのだと思います。いくらでも軌道修正はできます。ただし、自分自身の気付きがなければ不可能です。心からの気付き、心からの懺悔、堕落してしまった自分の姿をはっきりとその心で感じられなければ、難しいです。


 私はここぞというとき、すべてをかなぐり捨てることができます。そんな思いがアルバート一直線を貫いてきたということだと思います。あっち見てフラフラ、こっち見てフラフラ、それではいつまで経っても、何度チャンスがあってもものにできません。

 私の今世の肉の体験、経験は少ないです。鍋底を這ったような人生経験はないです。つらい、苦しいこともあったけれど、まあどちらかと言えば恵まれてきたと思います。しかし心にはそれこそたくさんの記憶が残されています。ありとあらゆることに出会ってきたから、それがくるりと変わった今、肉とはどういうものなのか、なぜ肉を持つ時間が与えられるのか、肉持つ人間の根源にあるものは何なのか、それらが一斉に自分に答えてくれているような気がします。
 そうなると、真実に出会わない意識は永遠に地獄から這い上がってくることは不可能だということになってきます。地獄の奥底から肉を持ってきたのに、もう地獄には帰りたくないと必死で肉を願ってきたのに、地獄へ戻っておいで、帰っておいでの熱烈な呼びかけに負けてしまうのです。
 私は、自分の中を覗いたとき、非常に厳しい自分自身の思いを感じます。自分の始末は自分でつける、野垂れ死にしようと狂い死にしようと、自分で決着をつける、そんな心意気を携えて今世生まれてきたように思います。私の中を流れるその思いが今世の肉を突き動かしてきた、だから私はここぞというとき、すべてをかなぐり捨てることができます。そんな思いがアルバ−ト一直線を貫いてきたということだと思います。
 あっち見てフラフラ、こっち見てフラフラ、それではいつまで経っても、何度チャンスがあってもものにできません。



 肉で見て肉で聞くどんな無残でむごいことよりも、自分の心の現実の方が、どれだけ無残でむごいことか、だからみんな本当のことを知っていくのを先送りにしているのです。現実を知るのが恐い、これが本音だと思います。

 甘える心がすべてを堕落させてしまっています。甘える心、甘えとはすなわち他力の権化です。だから豹変するのです。甘えを受けているときは、調子よく気分もよくああ私は何て幸せだとやっていますが、ひとたびそれが享受できないとなると、それが呪い、恨みとなって自らを苦しみの渦中に突き落としていくのです。その心の移り変わりを自分の心でしっかりと見つめていないと、そのエネルギ−にたちまち自分自身が飲み込まれ、大変苦しい土つぼにはまりこんでいきます。はまった土つぼから出てくるのは自分しかできないことが、どっぷりはまり込んでいるから全く分からない状態です。そしてどんどん呪いと恨みだけを増幅していくような心の世界にさらに落ちていきます。
 これは皆さん、どなたももうすでに経験済みのことです。そんな中から生まれてきたのが肉の人間だということです。そんなこともきれいさっぱり忘れ去ってしまって、肉の時間に通用する一時のものだけを追い求めていく姿は何とも哀れとしか言えないと思います。肉で見て肉で聞くどんな無残でむごいことも、この現実に匹敵するほどのものはありません。自分の心の現実の方が、どれだけ無残でむごいことか、だからみんな本当のことを知っていくのを先送りにしているのです。現実を知るのが恐い、これが本音だと思います。


 今世のこの時間がどんなにありがたいか、それはやがてあなたの心にしっかりと響いてくることでしょう。真剣に何もかも捨てて学び一筋になってください。あなたの心がそうでなければ、誰も何もどうすることもできません。

 あなたは、ご自分がどれだけの過ちを繰り返してきたか、その心でご存知ですか。肉の生活のことなんて、最低限やっていればいいんです。それよりも今世学びに触れたのだから、まず何をさておいても学びを中心に据えて、それから肉の生活を流していく、そういうことの自覚もなければ、あなたは本当に学んでいるとは言えません。それこそどこかのカルチャ−センタ−に通っている気分で、セミナ−に参加してこられたのではないでしょうか。
 自分の現実、自分の実態を知ってくださいと、まずそこからでないと何も始まらないことをセミナ−を通して学んできました。いずれはそれがこれからの転生の時間の中で明らかになってくるでしょうが、まだ今世このようにして時間が残されていますから、できる限り心で学んでいきましょうと私は呼びかけています。
 今世のこの時間がどんなにありがたいか、それはやがてあなたの心にしっかりと響いてくることでしょう。その時、アルバ−トを思い出すことができればいいですよ、さてどうでしょうか。それもみんなあなたの心ひとつにかかっています。このことがそうだと思えるならば、真剣に何もかも捨てて学び一筋になってください。あなたの心がそうならなければ、誰も何もどうすることもできません。


 誰も何も自分を窮地に追い詰めているものはない、自分で自分を苦しめているだけに過ぎないことが、全く分からない、いえ分かりたくないのです。誰かを責めて何かのせいにして、自分は間違っていないことを主張したい、自分の苦しみだけを分かってほしいと思うのです。

 どんなことも喜びに変えていける、そんな心が自分の中にある、それは自分が温もりだから、自分が優しさだから、そのことに気付くためのセミナ−であり、今世の時間と空間であるはずです。
 目的も動機も全くずれているということに気付けない方々には、これから厳しい現実が待っています。しかし間違わないでください。学ぶ目的も動機もずれているから、そういう現象に出会うのではなく、全く何一つ学んでこなかった自分だから、自分が放ってきたエネルギ−が帰ってきたときに、それをどのように自分の中で処理していけばいいのか分からない状態で、肉は混乱していくだけだということを言っているのです。
 誰も何も自分を窮地に追い詰めているものはない、自分で自分を苦しめているだけに過ぎないことが、全く分からない、いえ分かりたくないのです。誰かを責めて何かのせいにして、自分は間違っていないことを主張したい、自分の苦しみだけを分かってほしいと思うのです。
 苦しい自分の心を喜びに、ありがとう、嬉しい、お母さんありがとうと転回していく、すなわち自己供養を全くしてこなかった結果が自分に出てきます。それは田池留吉をばかにし、自分をばかにしてきた愚かな自分であることの何よりの証だということです。何も弁明はできません。何一つ弁明はできません。


 あなたはこの道を行くんですか、それとも行かないんですかと私があなたに聞いたとき、「はい」か「いいえ」だけでいいんです。私の思いはそんな思いです。アルバートに関してはそう、私ははっきりしています。

 私は回りくどい表現はしません。あなたはこの道を行くんですか、それとも行かないんですかと私があなたに聞いたとき、「はい」か「いいえ」だけでいいんです。私の思いはそんな思いです。アルバ−トに関してはそう、私ははっきりしています。ぶつくさ言うのならもういい、そんなものに関わりたくもないし、関わっている時間もない、そういう心境です。
 250年後を待つこれからのときが私にはあるのです。そのために今世田池留吉と出会わせていただきました。その自覚が私の中にしっかりと芽生えています。私にはもうともに落ちていくことなんてできません。しかし気張って頑張ってというのでもなければ、何もない、ただこの道があるのみです。
 私は、田池留吉、アルバ−トとともに歩いていく意識であることを今はもうはっきり心得ています。今世私が転ぶということはあり得ません。それほどの意識の世界を私は感じているということです。その世界には肉の己が出る幕などどこにもありません。後は肉を持つことにより勉強することがまだ残されているので、それを粛々とこれからこなしていくだけです。方向を定めた私の心は非常に軽やか、楽です。


 優しさと何とも言えない温もりその広がり、それは250年後に向けて意識達が怒濤のように結集してくる流れです。そういう流れを私は本当に感じています。

 私が私と出会っていくことにより、宇宙がどんどん変わっていく、そんな感じをアルバ−トの方に思いを向けていくと実感として伝わってきます。こういうふうに表現すれば、何か己偉し、ひとり悦に入っていると思われるかもしれませんが、私にはそれが意識の世界の具体性として響いてきます。
 その思いが、我は神なり、我は宇宙なりのブラックのパワ−でないことを私は確認しています。優しさと何とも言えない温もりその広がり、それは250年後に向けて意識達が怒涛のように結集してくる流れです。そういう流れを私は本当に感じています。
 だから今世、これからの肉体時計の時間がさらに私にとって大きな鍵となってくることを感じるのは当たり前です。すべて250年後に向けて整えてきましたという思いが伝わってきます。その大いなる計画のもとに、こうして肉をもらってその準備の時間と空間を自分に与えてきた、この私自身の思いを今はひしひしと心に感じています。
 ああ、私は私だけを見つめていけば、これからが流れていくのだという静かなそれでいて力強い喜びがあります。
 今世は、まさに歴史が大きく動いた時間でした。肉の歴史を含み宇宙が大きく変わっていく転回期にありました。そのことを私は心で感じています。その差が今世は歴然としています。


 まず肉の生活があってそれが現実の世界であってという心の世界からは、真実なんて本当に何一つ見えてこないことを、もっと自分を見つめていく中で分かってこなければなりません。

 「意識の流れ」も「核からのメッセ−ジ」も心で読んでください。本当のあなたが偽りのあなたに問いかけているのです。これはどうですか、あれはどうですか、こんな思いに気付いていますか、あなたはどのように自分自身を含む周りの世界というものをとらえてきましたか、どんな目で周りを眺めてきましたか、どんどんどんどんあなたの心に問いかけをしているのです。肉の時間を流していく、肉の生活を送っていく、その中であなた自身いつもいつも絶えず自分に問いかけをしていくことが大切だと思います。
 時間にただ流されて、周りの風景に流され、あるいはその中にどっぷりつかって、それでいてアルバ−トとやることが二足の草鞋だと言っています。その人には肉の生活が中心だからです。他力の中ではそれがごく自然なんです。私は二足の草鞋ははいていないと思われているかもしれませんが、まず肉の生活があってそれが現実の世界であってという心の世界からは、真実なんて本当に何一つ見えてこないことを、もっと自分を見つめていく中で分かってこなければなりません。
 またこの学びに集われている中に、この学びも修行ととらえている方も多いです。自分を縛って難行苦行の道でないと真実は分からないという思いのもとに、いまだに喘ぎ苦しんでいる方もいらっしゃると思います。そうではありません。アルバ−トの世界は非常に楽な世界です。どんな自分と出会っても、決して苦しみ悩み落ち込んでいきません。反対に自分は偉くなったとか、そういう思いも出てこないのです。


 肉の人間、そして彼らが築いていったものなんて本当にはかないものです。一瞬のうちに何もかも海の藻屑となって消え去っていく現象も目の前に示されました。それでも手を合わせる、神、仏に祈る姿はこれからも続いていくことでしょう。

 互いに今肉を持ち、だから肉を通して学べることを喜んでいけばいいと思います。
 何のためにあなたは今肉を持っていますか。真実の世界をその心で少しでも垣間見るために、あなたは肉を持ってそして社会で働き家族を持つ時間を与えられているのではないのでしょうか。社会で働き家庭を築くために、あなたは生まれてきたのではないことを、あなたの心は知っています。それでもなおそこに喜びと幸せを求めていくその心とは、いったいどんな世界なのでしょうか。
 肉の人間、そして彼らが築いていったものなんて本当にはかないものです。一瞬のうちに何もかも海の藻屑となって消え去っていく現象も目の前に示されました。それでも手を合わせる、神、仏に祈る姿はこれからも続いていくことでしょう。だからもう人類はだめだということです。
 こんな現象はこれから続々起こってきます。規模が大きく、それは前代未聞だと報道されることでしょう。救援物資も人道的救済もいずれは底をついてきます。そんなものでは到底追いつけないことが次から次へと起こってくる、それがこれからの人類が体験していくことだと思います。
 まさに波動の世界を心で感じていく時代に本格的に入っていきます。形が消え去ることを通して、愚かな人類は自分達の心で気付いていく、その手立てしか残されていないと心で見えてきたなら、すべてにありがとうしかありません。


 いずれ「意識の流れ」からのメッセージを私の心は受けていくようになるでしょう。たくさんの意識達の思いを私は感じています。ともに歩む仲間、怒濤のように結集してくる意識達に応えていきたいと思います。

 「意識の流れ」この本には目次がありません。なぜ目次がないのかと思われているかもしれません。目次はつけられない、なぜならばこの本には流れがあるからです。淀みのない流れをここからここまでと区切ることはできません。
 この本は短期間に出来上がりました。それは肉としては一番不思議なことでした。パソコンのキ−を打っているうちに一冊の本が仕上がった感じです。
 書き出しをどうしようか、締めくくりをどうしようか、ここではこういう点に絞っていこうとか、そういうものは一切ありませんでした。ただ心に上がってくるままを指がキ−を押さえていっただけです。
 さあこれから田池留吉、アルバ−トに心を合わせてと気負うこともなかったし、特別にこの作業をするために時間を作ったこともありませんでした。自然にそう本当に流れるような時間の中で、一枚一枚ペ−ジを重ねていきました。楽しかったし嬉しかったし、自分の心で確信していることをそのまま打ち出していく作業はとても楽でした。
 いずれ「意識の流れ」からのメッセ−ジを私の心は受けていくようになるでしょう。たくさんの意識達の思いを私は感じています。この一冊の本がこの世に誕生することにより、まだ見ぬ仲間達、250年後に向けて出会う仲間達に心から伝えたいという思いが具体的に形になってくると思います。ともに歩む仲間、怒涛のように結集してくる意識達に応えていきたいと思います。


 所詮、肉は影です。影に泣き、影に怒り、影に脅えてきただけのことです。どうせなら影を影と認識して影に笑う人生を送ればいいと思いませんか。肉で泣き肉で怒ってばかりでは、そんなアルバートなんてとてもとても、です。

 自分の学びの姿勢を振り返っていってください。足元がぐらついていることに気付かれませんか。それはすなわちあなたの人生でもあるのです。学びは人生だと伝えてきました。学びの他にあなたの人生はありません。
 どんな境遇にありどんな肉の人生をあなた自身が選択されたか、それは私には分かりませんが、それらをみんな自分の肥やし、教材にしようとそれぞれの肉の環境をそして肉の形を選ばれてきたことだけは確かです。そういうものに溺れて、そしてさらに自分の心癖を膨らませてどうなるのかと、一歩も二歩も肉の自分から離れて客観的に自分を見つめていってください。あまりにも肉の自分にぴったりではどうかと思います。もっと自分を客観視すること、外側から自分を眺めることをやってみられたらと思います。
 それは、肉の自分に対してだけではありません。あなたの家族を始めあなたの周囲に位置する方々、もっと肉の目から離れて周りの風景を眺める目というか、そういうものを養われてはどうでしょうか。
 所詮、肉は影です。影に泣き、影に怒り、影に脅えてきただけのことです。どうせなら影を影と認識して影に笑う人生を送ればいいと思いませんか。肉で泣き肉で怒ってばかりでは、そんなアルバ−トなんてとてもとても、です。
 まず、肉は笑いそしてそこから自分の心を見ることをやっていきましょう。


 心で感じてくださいということは、最初からお伝えしている通りです。感じられない人には、そう全く何もありません。しかし、私は感じています。だからこうして伝えることができます。本当は波動をお伝えしていますが、肉に留まる意識には大変困難なようです。

 ともに肉を通し学べる残り少ない時間を、私は精一杯学んでまいります。この思いが先導して肉は後に従います。幸せです。何とも言えない幸せ感があります。肉とともに学べる私は、肉は愚かと言っても何とも幸せです。アルバ−ト、次元を超えてやってきた私の心に響いてくる、アルバ−トです。呼称は何でもいい、この波動、この広がり、この宇宙を私は何億年もいえもっと待ち続けてきました。今、肉を持ちようやくその出会いがあったことが、何とも言えません。
 心で感じてくださいということは、最初からお伝えしている通りです。感じられない人には、そう全く何もありません。しかし、私は感じています。だからこうして伝えることができます。本当は波動をお伝えしていますが、肉に留まる意識には大変困難なようです。
 誰でもが分かる世界、誰でもが感じられる世界です。どうして分からなくなってしまったのか、どうして信じられなくなってしまったのか、肉に落ちた意識達の苦しみ喘ぎを感じるにつけ、どうしようもないところまで来てしまったのだなあと思います。それでも伝え続けます。伝え続けたいです。


 基盤が変わってくれば、自分の心の歴史が分かります。いかに愚かな自分であったか、そしていかに自分は許されてきたか待たれている存在であるか、心で分かるのです。

 思えば通じる世界です。タイケトメキチを思いアルバ−トを思えば、すべてをひとつにして歩んでいる存在している、そう心で確認できます。私は何も要りません。何も要らない、金と神にまみれた欲だらけの心には、この思いは単なる絵に描いた餅に過ぎません。だから全く理解できません。
 皆さんはたぶん、アルバ−トが肉を持つということがどういうことなのか、どんなにすごいことなのか、実際のところその心でまだまだお分かりになられていないと思います。だから250年という時間が必要なのでしょうが、もう少し具体的に自分の心で感じ始めたなら、あなたはその肉、肉の世界から心が自然に離れていくだろうと思います。
 基盤が変わってくれば、自分の心の歴史が分かります。いかに愚かな自分であったか、そしていかに自分は許されてきたか待たれている存在であるか、心で分かるのです。そういうことが自分の中から伝わってきます。そうなってくれば、愚かな肉にありがとう、すべてにありがとうしかありません。どんな世界に存在していたか、しかし温もりが自分を決して見捨てはしなかった、必ず帰ってくると信じて待ってくれていた自分と出会ったとき、どうしてその自分を裏切ることができますか。肉を離せない、肉を基盤としているのは、いまだにその経験がないからです。本当の自分と出会っていないからです。


 この学びも最初本と出会ってこれだと勇んでやって来られた人もあるでしょうが、今現在どうですか。その当時と今では、学びの土壌は違っています。あなたのその心意気を曲げずに育てていけるようにセミナーは進化しています。どうぞあなたも成長なさってください。

 セミナ−に来ていても学んでいない人はたくさんいます。肉は運んでいるけれども、そして確かに何かを感じてはいるもののという程度の人はたくさんおられます。やはり惰性というのか、みんな心を素通りしてしまっているというのか、それでいて学びからは離れられない、離れられないからひたむきかと言えばそうでもない、真実を肉で知りながら、それでも素直になれない己を捨てきれない、何か中途半端です。自分で自分をそのように思えませんか。
 では、セミナ−に集っていない人はどうなのか、確かにみんな肉、肉で生きています。でもそれでも人生とは何か、その他何かを考え探している方もまた多いと思います。考え探してはいるけれど、その方向は大きくずれまた全く違っていることはそうでしょうが、その方々はひとたび真実の世界に触れたとき、その方々の意識の世界は飛躍的に変わっていきます。
 この学びも最初本と出会ってこれだと勇んでやって来られた人もあるでしょうが、今現在どうですか。その当時の思いを忘れずにやっておられますか。それとも自分の目的と動機が間違っていたと心を見られましたでしょうか。その当時と今とでは、学びの土壌は違っています。あなたのその心意気を曲げずに育てていけるようにセミナ−は進化しています。どうぞあなたも成長なさってください。いつまでも同じ場に留まることなく、最初の一歩を歩み出していってください。


 過去の実績はもういいです。所詮肉基盤の実績をいつまでも引きずっていると、気がついたときにはひとり取り残されているということにもなりかねません。これから250年の間に目覚めていくスピードは速いです。たとえ今世セミナーに肉は集われなくても、もうその種まきはしています。

 学びに集い、心を見るということを知っていく中で、どなたもそれぞれに重点的に見ていく、クリアしていくポイントがあります。それをおざなりしてまあまあと適当にしていては、本道を歩いていないことになります。自分で決めてきたことと違っていれば、それはあなたのアルバ−トへの道にはなり得ません。どんなに真剣にアルバ−ト一筋にやっていこうと意気込んでも、ポイントのずれた学び方では徒労に近いです。
 それでも私はやってきました、やっていますと言われるなら、本当に己がどこまでもそびえ立っているということだと思われます。本当の自分が望んでいることにちっとも心を向けないで、我流の学びをしているのではないでしょうか。あなた自身が本当に解き放したいエネルギ−と、もっと素直に真摯に向かい合えないでしょうか。
 過去の実績はもういいです。所詮肉基盤の実績をいつまでも引きずっていると、気がついたときにはひとり取り残されているということにもなりかねません。これから250年の間に目覚めていくスピ−ドは速いです。たとえ今世セミナ−に肉は集われなくても、もうその種まきはしています。その意識達の目覚めを私は楽しみにしています。


 心につかんだ教祖、開祖、理想像、チャネラー等々、それらを自分自身の心から解き放すことがなければ、アルバートの世界は分かりませんし、感じている広げていると思っている世界は全く違います。

 心につかんだ教祖、開祖、理想像、チャネラ−等々、それらを自分自身の心から解き放すことがなければ、アルバ−トの世界は分かりませんし、感じている広げていると思っている世界は全く違います。もう充分に反省をして間違っていると確認してきた、それはすべてを否定できませんが、まだまだの感があると思われます。それはその反省はやはり、対等の立場からしてこなかったからです。自分が素晴らしいと思ったから心に入れてきた、その心のままで崇め奉る心のままで、心に入れてきた自分が間違ってきた、こんな反省をいくらしても、やはりあちらさんが上で自分はそのしもべの状態です。だからその世界は、いくら反省しても大きな大きな世界だと心の底では思っています。それは、真実の波動の世界を知らないからです。どんな大きな広がりのある世界であるか、アルバ−トの世界を知らない心では、例えばアマテラスにしても、ひれ伏した状態で反省をし続けてきたということです。
 私自身も、今世ある宗教団体の教祖を心に持って田池留吉の肉と出会いました。肉と肉を比較して、だからなかなか自分の固定観念を覆すことができませんでした。しかし、私は自分に問い続けました。結果、セミナ−と並行して自分に起こってくる現象とともに、真実に至る道に自らを誘っていく流れをはっきりと感じ始めたのです。肉はちっぽけでした。もちろん心につかんだ教祖もアマテラスもちっぽけでした。それは波動をアルバ−トを知ったから分かることでした。


 甘えは人間を堕落させていきます。肉の人間はどこまでも果てしなく増長していきます。全く愚かです。

 甘えは人間を堕落させていきます。肉の人間はどこまでも果てしなく増長していきます。全く愚かです。犬や猫達は違います。彼らも甘えてきます。甘えを要求してきます。でも受けられなければその場限り、後を引きません。彼らは流れの中にあるからです。自分達は個だと思っていません。彼らと肉の人間の違うところです。他力のエネルギ−と無縁な彼らには何もありません。ただ喜びを流している存在です。
 一方、頭脳をあてがわれた肉の人間、賢いと思ってきた肉の人間、その現実の姿を心で知れば、いえ知りたくないから肉に逃げ惑うのです。他力のエネルギ−を求める姿はまさにそれでしょう。現実から目を背け仮想世界を心に描いて自爆していくことだけをやり続けてきました。だからパワ−が必要だったのです。パワ−の世界を執拗に求め続けてきました。求めても求めても苦しいから、さらに大きなパワ−を求めようとしてきました。そのすべてが間違いであったということに本当に心の底から気付くには、そのパワ−の実態に出会わなければならないでしょう。本当の出会いがあれば、心から出てくる思いは、かしずく、おもねる、あるいは切り捨てる、そんな思いではなく、ただ愛しいそしてありがとうと抱きしめてやれる、そんな自分自身の思いとまた出会っていくのです。その時間が肉の人間に与えられているということになります。肉の人間は愚かなのです。まずそこからスタ−トです。正しい、間違っていない、素晴らしい、その段階では全く何にも気付けません。


 意識の流れが田池留吉という肉を持たせました。そう心でとらえることができるならば、その反逆行為すなわち田池留吉の流れを遮った行為はいかに大変なことか感じられるでしょう。

 流れは変えられません。流れはひとつです。「この流れとともに行こう、ともに学んで行こう」もしそういうことを耳にしたとき、あなたならどうしますか。セミナ−後は、やがてあちらこちらで学びのグル−プができていくでしょう。人は人を求めどこかで繋がっていることに安心感を抱きます。人が集ればそれを束ねる人も出てきます。そういうふうにこれから動いていくだろうと思いますが、さてあなたは、その中でどのようになさっていくでしょうか。
 私見としては、ともに学んで行こうとしても、学べるものではない、学ぶものなんて何も残されていないということです。学ぶべきものはみんなセミナ−中に学んでいるはずだと私は言いたいのです。
 さて、そのセミナ−開催中に、田池留吉を裏切る行為をやってのけたという記憶もまだ新しいと思います。もちろんそれは、肉の田池留吉というのではなく、田池留吉という流れを遮った、反逆したということを言っていますが、そのことの重大さにまだ心で気付けていない人もおられるのが現状です。このことに類したものは他にも聞いています。その思い、その心癖はそう簡単には修正できないことと思います。
 意識の流れが田池留吉という肉を持たせました。そう心でとらえることができるならば、その反逆行為はいかに大変なことか感じられるでしょう。そして、私もまたその流れの中で肉を持ってきました。私は自分をもうそのようにとらえています。私達はひとつ、すべてがひとつになって、最終段階へと突き進んでいると私は感じています。


 愚か者同士が社会を作り家庭を築き、互いの愚かさを責め合い闘いを繰り広げています。愚かなのは自分であったと気付けば、みんな違った風景に映ってきて、互いに肉にはない絆が生まれてきます。

 真っ直ぐに一本に続く道、あなたの心は見えますか。私にはその道が見えます。私はその道が幸せ、喜びの道だと確信しています。もし人に聞かれたとき、言葉を濁すことなく自分の思いを語ることができます。相手に理解してほしいという思いはなく、反対にどう評価されても私は私の思いを静かに語るだけだと思います。多くは語りません。しかし中心は外しません。自分の生き方に妥協などできないことをはっきりと語ります。
 愚か者同士が社会を作り家庭を築き、互いの愚かさを責め合い闘いを繰り広げています。愚かなのは自分であったと気付けば、みんな違った風景に映ってきて、互いに肉にはない絆が生まれてきますが、それは今非常に難しいです。複雑な社会環境の中で、氾濫する情報の中、様々な価値基準が生まれ、人々はその中で目先のことだけに右往左往する日々を過ごしています。
 現在社会には、ゆったりと過ごす時間などありません。時間に追われていることが生きている証だと思っています。ほとんどの方が金儲けと遊興に忙しく、来し方を振り返ることなどありません。振り返るとしたら晩年です。自分の死を意識し始めた頃から振り返るというのが、世の常識でしょう。それならまだましなほうです。心の声を聞きながら、何もしない、できなかったまま死んでいく人がほとんどです。その中で、真実の道、生き方に出会うということがどんなに幸せなことなのかと思わざるを得ません。


 250年後とか次元移行とか心で感じられない人には、本当にそれは非現実的なものです。それよりも今眼の前に見えて聞こえる生活のほうが、やはり自分にとって現実だという感覚はぬぐい切れません。だから本気になって「意識の流れ」も読めないし、ホームページにも向かえないし、セミナーは惰性であるいは興味本位でそして他力とりわけすがる、しがみつく思いで参加しているだけかもしれません。

 私の価値基準は全く変わりました。今しみじみ幸せだなあと思っています。
 心で思える確かな現実の前には、たとえ潤沢なお金と物、語り合い行動をともにできる友あるいは家族、自分を示す肩書き、自分を必要だと認めてくれる人または場所、その他そういった類のものがあったとしても、それらはかすんで見えます。そしてそういうものにのみ命を削りながら肉の心と身体そして時間を使っているのが、何かとても哀れとしか言いようがありません。
 250年後とか次元移行とか心で感じられない人には、本当にそれは非現実的なものです。それよりも今目の前に見えて聞こえる生活のほうが、やはり自分にとって現実だという感覚はぬぐい切れません。だから本気になって「意識の流れ」も読めないし、ホ−ムペ−ジにも向かえないし、セミナ−は惰性であるいは興味本位でそして他力とりわけすがる、しがみつく思いで参加しているだけかもしれません。
 私の現実はアルバ−トの世界です。私はそこから眺める心模様を綴っています。今この肉を使ってその世界を伝えています。だから肉でしか受けられない人には、私が語っていることはその次元でしか理解できません。すべてを肉でとらえ肉で批判したり感想を述べたりしているのです。それでは私がお伝えしようとしていることとは、全く通じ合いません。どこまでも肉の目で私を見ているからです。


 外側から起こってくる天変地異とともに自分の内からも、どんどん天変地異の波は寄せてくる、それがこれからのときだと思います。それが250年後へと続く意識の流れの中の出来事であると私の心はとらえます。

 家族のためにいえ己という肉のために馬車馬のように走る人生、その先にいったい何が待っているのでしょうか。そのスピ−ドを緩めときには足を止めて、ゆっくりと振り返ることすら自分に許せなくて、何のために何を目指して突っ走るのかも分からないけれど、とりあえずそうすることが自分のするべきことだと思い込んでいるのでしょう。頑張らなければ、社会に取り残されていくという強迫観念が自らを叱咤激励しているということでしょうか。
 みんな頑張っているから、お前も頑張れ、エイエイオ−の掛け声勇ましく、でもそう計算通りには行きません。そこで待ったの声がかかるのです。その声を最初は無視してそして抵抗して、それでも段々その声は大きく聞こえてきます。自分の身体に心に環境に不調和が起こってくるのです。不調和はマイナスだから、何とかしようと躍起になっていきます。解決手段を必死に求めます。その声すなわち、その不調和は自分の声だとは誰も思えません。自分の苦しい救いを助けを求めている声だとは自分自身気付けません。自分を苦しめるその声から逃げたくて聞きたくないと思っていくばかりです。最悪はその声に従って廃人同様になるか、その肉の命を自ら絶っていくか、地獄の奥底から聞こえてくるその声に引きずられていくのです。
 本当の優しさそして温もりをその方が心で思い出し、それが自分自身であると信じている状態であれば、決してそういうことにはなりませんが、世の中が複雑化していき、それにつれて状況が厳しくなっていけば、もう抱え切れない心の闇が表面化してきます。外側から起こってくる天変地異とともに自分の内からも、どんどん天変地異の波は寄せてくる、それがこれからのときだと思います。
 それは250年後へと続く意識の流れの中の出来事であると私の心はとらえます。意識の流れということが、一冊の本という形となってこの世に出たということは、すごいことなのだと私は今更ながら思います。冒頭、すべての意識はその流れの中にあります、私自身、これから自分の身辺を通してそのことを肉で確認していけることだろうと思っています。


 250年後に続く流れの中で、意識達に目覚めを促していきます。肉の人間の内外からその揺さぶりを起こしていく流れが、もうすでに始まっています。

 お帰り、よく帰ってきたね、心に感じる意識達にそう伝えてやれることが嬉しくて、肉の心は揺れても何だかとても嬉しいです。こうして私達は250年後に出会っていくんだと思えることが嬉しいです。
 肉の殻の向こうには無限に広がる世界があることを伝えたい、お母さんの温もりに帰りたかったあなただよって伝えたい、苦しみ悩み憂えるあなたは本当のあなたではないよって伝えたい、そして心を閉じ込めないで、解き放していきなさいって伝えたいです。私の思いはそんな思いです。私には何もない、アルバ−トとともにある私には、アルバ−トへと誘う思いだけです。ただし、心にいっぱい詰め込んだままではアルバ−トとともに歩めないこともお伝えしています。私はそんな思いでいるけれど、心を向けるか向けないかはあなた次第です。
 波動はどんどんどんどん流れています。アルバ−トがどんどんどんどん流れています。250年後に続く流れの中で、意識達に目覚めを促していきます。肉の人間の内外からその揺さぶりを起こしていく流れが、もうすでに始まっています。
 それは自分の生き方、存在の仕方を自分に問いかけてきます。自分を知っていくことが本当に生きるということだと、自分は何も知らず分からずに存在してきたのだと、心で知る出会いがあります。それが内外から起こってくる天変地異と言えると思います。


 すべてを崩しなさい、何もかも捨ててください、これから何度も何度もその呼びかけ、いざないがあるでしょう。喜びの自分自身に帰るにはそれしかありません。その道をともに行きましょうと私はお伝えしています。

 今世、私は自分に伝えたことがあります。それは、私がずっと苦しかったのは、悪魔が闇が自分を苦しめ狂わせていたのではなく、真実に目覚めていない、気付けていない自分自身が、言うならば地獄の世界を広げてきたに過ぎなかったということです。私は今世の時間と空間を得て自らにそのことを伝えたのです。そのことが本当に心で分かったからです。だから苦しんできた狂ってきた数え切れない自分自身がただ愛しく、肉を持たせてもらったことにありがとうと心の底から思えるのです。自分が選んだ環境は最高だったと今心から思っています。
 それと同時に、今という時間がどんな大切な時なのかも深く感じています。意識達の必死の思いは、肉の殻を突き破りました。だからその思いは心の奥底から響いてきます。そのエネルギ−が宇宙を駆け巡る様を私は感じます。天変地異のうねりが心で感じられる、そしてそれはまさしく喜びのエネルギ−です。大きなうねりとなって意識達の目覚めを促していく、何ともすごい展開になっていくことも心で感じられるのです。
 流れ、本流は怒涛のように心に押し寄せてきます。すべてを崩しなさい、何もかも捨ててください、これから何度も何度もその呼びかけ、いざないがあるでしょう。喜びの自分自身に帰るにはそれしかありません。その道をともに行きましょうと私はお伝えしています。


 苦しいのは自分自身を何も知らないからです。苦しみの底に沈み込んできた自分が必死に訴えかけているのに、それは自分ではないと拒否していく、そんな自分ではないと封じ込めていく、それがどれだけ愚かなことか、自ら知っていくこれからです。

 ああ、そう私達はまさにひとつ、ひとつになって今突き進んでいます。その喜びが「意識の流れ」からも核からのメッセ−ジからも感じられませんか。肉を見ていてはだめですよ。肉の目で肉を見ていては、何も感じられません。心で感じていくのです。
 遅かれ早かれすべてを捨てる時期がやってまいります。今、あなた自身がどんなに肉にしがみつき、肉をつかんでいても、それができなくなる時期がやってくると伝えています。そのとき、そのまま他力の渦の中に埋没してしまうか、それとも私達とともに歩みを進めていくか、本当にふたつにひとつを選択していくときがやってくるということです。
 自分自身の気付きです。肉を持って真実を知るチャンスを目の前にしながら、という方は多いです。みんなそれぞれが選んでいくことですが、何ともったいないことをしているなあと見受けられる方はたくさんおられます。
 自分が存在してきた時間というものを、本当にその心で振り返ることができたなら、もう今肉をもらって存在していることが、どれだけの温もりと優しさの中にいざなわれているか、手に取るように感じられます。苦しいのは自分自身を何も知らないからです。苦しみの底に沈み込んできた自分が必死に訴えかけているのに、それは自分ではないと拒否していく、そんな自分ではないと封じ込めていく、それがどれだけ愚かなことか、自ら知っていくこれからです。


 喜びを伝えてくれたのは狂い苦しみ続けてきたすさまじいエネルギー、今それがプラスとなってともに歩みを続けています。どの方も、その可能性を大きく秘めているご自身であるとその目覚めを待っています。

 私には己がありません。タイケトメキチ、アルバ−トを思う私には己という肉がありません。だからひとつです。私はひとつの喜びと幸せを心で感じています。永遠に変わらないもの、その世界に触れている私にはこれこそが唯一の現実ということになります。
 肉の私は確かに今ここに存在しています。しかし、私の世界はその世界ではありません。肉は今必要だから持っています。肉を通して自分自身の世界を知っていくために、肉をもらってきたことを自覚しています。それに気付くまでは苦しい人生でした。気付くために肉をもらったことを知り、私は今肉を持っていること自体が嬉しいだけです。
 流れが田池留吉という肉を持たせたように、私も今そのように自分をとらえています。揺るぎない私の中の流れ、それは確実に250年後へとそして次元移行へと続いていく流れです。心で感じる私にはただただありがとうしかありません。そして幸せです、お母さんありがとう、真っ黒を抱えきれないほど抱えている私がそう叫んでいます。それが私にはたまらなく嬉しいということです。喜びを伝えてくれたのは狂い苦しみ続けてきたすさまじいエネルギ−、今それがプラスとなってともに歩みを続けています。どの方も、その可能性を大きく秘めているご自身であるとその目覚めを待っています。


 過去からの循環から抜け出たところから自分を眺めています。なるほどすさまじいエネルギーの固まりです。でもそれらはマイナスからプラスへと転回していく道筋を今着実に歩み、その集大成が250年後にあるということを確信しています。

 我流の学び方はもう通用しないことを知っていってください。そんな過去からの下らない産物を引っさげてそれでアルバ−トが分かるものでもなく、真実の世界を知ることができるものでもありません。どこまでも己が偉いです。
 みんな真っ黒です。ただ真っ黒を真っ黒だと本当にその心で知っているのは僅かです。だから教祖をしたがるのです。救いたいと思い、導きたいと思い、頂点に立ちたいと思うのです。当然、マイナスのエネルギ−をそのままマイナスとして流していく結果となっていきます。そしてそのエネルギ−は巡り巡ってどこへ行くのか、全部自分に返ってきます。そういう循環の中にみんなはまり込んできたということに、とっくに気付いてもいいはずですが、それがなかなかです。しかし、いよいよそういう時期に来て、そして目の前に田池留吉という肉が現れたということです。
 私はその気付き、目覚めがありました。だから過去からの循環から抜け出たところから自分を眺めています。なるほどすさまじいエネルギ−の固まりです。でもそれらはマイナスからプラスへと転回していく道筋を今着実に歩み、その集大成が250年後にあるということを確信しています。
 大きなエネルギ−だからこそ仕事ができるのです。プラスへと転回していく過程の中で放出する喜びのエネルギ−は、宇宙へと勢いよく力強く流れていきます。このことを今肉を持って知ることができる、これこそ肉を持ってきた醍醐味だと私は思います。


 真っ黒が嬉しい、今回のセミナーでそう感じられましたか。私はできている、私は分かっている、そんな方ほどどれほど愚かであるか、その肉の目を通し耳を通しそして心を通して学ばれましたか。

 真っ黒が嬉しい、今回のセミナ−でそう感じられましたか。私はできている、私は分かっている、そんな方ほどどれほど愚かであるか、その肉の目を通し耳を通しそして心を通して学ばれましたか。もちろん今世この学びの中でチャネラ−とされてきた方の波動を感じられたと思います。語る言葉など問題外です。波動です。どんな世界からその言葉を発しているか、それだけです。
 本来は言葉など必要としません。ただ肉でも納得させながら、段々に核心を突いていくということの必要性から、言葉を添えているに過ぎません。しかしそれも本当は言葉ではないのですが…。大切なことは頭で納得するのではなく、心で納得するということです。
 ところで私は大変幸せ者です。私自身毎回毎回大変いいお勉強のチャンスを自分自身に用意しています。肉はただそこに座っているだけで、自分自身こんなに素晴らしいお勉強ができること、これも私のシナリオなんでしょう。
 私の目の前には肉の人間がいるのではありません。その肉を通して意識達が自分達の愚かさとか優しさそして本当の世界、無限に広がる温もりを知っていくことの喜びを私は感じています。だから温もり優しさ広がりを感じて喜びと同時にすさまじいエネルギ−、心の叫びもすごい喜びです。私には喜びとしてしか感じられない、すごい時間と空間、やはりありがとうしかありません。


 今世、田池留吉と出会いセミナーに集っているということがどんなにすごいことであるか、自分自身にとってどんな意味を持っているのか、その重大さに心でまだまだ気付けていない方は多いと思います。

 今世、田池留吉と出会いセミナ−に集っているということがどんなにすごいことであるか、自分自身にとってどんな意味を持っているのか、その重大さに心でまだまだ気付けていない方は多いと思います。私は以前に剣が峰という表現を使いました。心ゆったりと伸び伸びと存在されることは大切なことです。心を縛って裃をつけた状態ではとても自分の世界の解放などできません。あるいはまた、やっていこうという思いはあってもなかなか軌道に乗らないということもあるでしょう。しかし、剣が峰なんです。その思いがどれほどそれぞれの心に芽生えているか、本当にそのことが心にひしひしと伝わっていれば、もっと素直に本当に素直になってそしてそれこそ何もかもみんな捨てて、学びの扉を自分の心でいちずに開けると私は思っています。
 来世、250年後に繋ぐ、簡単に気軽に思っているふしがあります。まるでエスカレ−タ−に乗ってそのまま降りればそこは250年後くらいに思っているのでしょうか。セミナ−会場の波動の勉強の時間にもう目の当たりに見て感じられたでしょう。そんなに生易しいものではありません。家族がどうした、仕事がどうした、そんなどころではもうないということを一日も早くご自分の心で気付かれるのを待っています。
 形ではありません。あなたの決意です。あなたの心です。たくさんのものを握ってそのうえなおかつアルバ−トの道を進みたい、そんな愚かな自分と出会っていく日もそう遠くはないと思います。


 奇麗事であるいは適当なところで手を打って、本当のことが分かるのなら、こんな簡単なことはありません。ぐつぐつ煮えたぎる地獄の釜を自分で開けて、そこへ自ら飛び込んでいく、たとえばそのような思いでないと、意識の転回は難しいです。

 奇麗事であるいは適当なところで手を打って、本当のことが分かるのなら、こんな簡単なことはありません。ぐつぐつ煮えたぎる地獄の釜を自分で開けて、そこへ自ら飛び込んでいく、たとえばそのような思いでないと、意識の転回は難しいです。私の思いはそのような思いです。自分が生きるか死ぬかのときに、顔でへらへら笑って調子を合わせてなんかできません、できませんでした。今は余裕があります。周りを見渡せる余裕があります。それでもそれはほんのわずかです。やはり私は私の世界しかありません。
 だから田池、殺してやる、田池、くそったれを出してきたときの私は必死でした。本当に心の奥底から沸いて出てくる思いと真向かいになっていました。真向かいになるために今私は田池留吉と出会っているんだという気迫、それはまさに地獄の奥底からの心の叫び、今を逃して私が這い上がってくるチャンスはない、そう自分の心に伝わっていました。
 私はそんな過程を自分の中で歩んできました。そして誰に言われずとも私自身が自分の心で出してきた答えは、この道しかないということでした。固い決意を感じたからこそ自分で辿り着けたのです。だから私は不動です。揺るぎがありません。妥協はしません。譲れません。おいしい餌に食らいついていく愚かさは私にはありません。みなさん、どうですか。学びをそのようにとらえてきましたか。私の中に脈々と流れる、真実の流れ、それを心はとらえて離しません。


 真実を知る心はとても優しい、優しいからこそ本当のことが言える、本当のことを真っ直ぐに言える、このことはご自身が体験なされば簡単に分かることです。

 あなたの喜びは私の喜びです。あなたが嬉しい、幸せだと私も嬉しいし、私も幸せです。嬉しい、ありがとう、喜びの現象、ふるさとの流れる中で心に伝わってくるメッセ−ジ、アルバ−トに包まれていることを感じます。すべてが喜び、出会いをありがとう、アルバ−トを求めて止まない心、私であって私でないその感覚がたまらない喜びです。
 もちろん、波動の勉強はたまらなく嬉しいです。たまらなく幸せです。肉はふたつ、でも私達はひとつ、ひとつの世界の喜びと幸せが波動となって流れ出しています。私にはもうそれで完結です。その時間と空間を許されていることがただただ嬉しいです。地獄の奥底の叫びであろうが何であろうが、それらを解き放すことができる優しさと温もり、そしてどこまでも広がっていく世界に心を委ねられる幸せと喜びを感じます。
 アルバ−トの世界、真実の波動の世界を知らないから、握っているものを手放せないのか、手放せないから分からないのか、どちらにしても学びを田池留吉をあまりにも軽く見過ぎたという現実が、今目の前に大きく覆いかぶさっているのではないでしょうか。
 私の表現は厳しいです。しかし、真実を知る心はとても優しい、優しいからこそ本当のことが言える、本当のことを真っ直ぐに言える、このことはご自身が体験なされば簡単に分かることです。


 自分が温もりであり、優しさであることを知っているから、どんなエネルギーを感じても、私はそれによって自分を見失うことはありません。250年後にまた肉を持ってきたときに、私は自分の心でそれを再び証明するようになっています。だから今世があったのです。

 本当の優しさとはどういうことでしょうか。このことひとつを取り上げても、基盤が違えば全然違うことが分かります。
 身近にいる人で大切だと思っている人には、本当のことを伝えたいと自然に思うはずです。自分が幸せならそれが自然です。だからもしその機会があれば、分かってくれなくてもいい、どんなに反発が返ってきても、自分が心で感じていることを真っ直ぐに伝えることができると思います。私なら、そうします。そしてそれで完結です。私の思いはそこで吹っ切れます。後、どうしていくかは本人が決めていくことだから、私は後追いをしません。本当のことを言葉を介し、その人の意識の世界に伝えられる、そのことだけを嬉しく思っています。
 そして、私は私の世界に戻ります。自分に自分が答えている、自分の中の温もり、優しさが感じられます。そして幸せだとしみじみ思える、本当に私はそんな中に存在しているんだ、嬉しい、ありがとう、今というときをありがとう、こんな思いの中で時を過ごせていることが最高に幸せです。
 自分が温もりであり、優しさであることを知っているから、どんなエネルギ−を感じても、私はそれによって自分を見失うことはありません。250年後にまた肉を持ってきたときに、私は自分の心でそれを再び証明するようになっています。だから今世があったのです。今は本当にその意味がよく分かっていて、だから私は嬉しいだけです。アルバ−トとともに生きる時間、空間、嬉しい、嬉しいだけです。


 心を見ていけば、どんなに窮屈な中にどんなに狭い中に自分を閉じ込めて存在していたか分かります。そしてそんな自分を解き放していくことを一番望んできたことだったと心で感じられるはずです。

 心を見ていけば、どんなに窮屈な中にどんなに狭い中に自分を閉じ込めて存在していたか分かります。そしてそんな自分を解き放していくことを一番望んできたことだったと心で感じられるはずです。誰が悪い、何が悪い、母親がどう、あの人が、なんて思えません。そんなものどうでもいい、今自分が苦しみさ迷っていることだけが現実であり、苦しんでいるのは紛れもなく自分であると分かるなら、そこからどのようにしていけばいいのか、また自分の心にのみ思いが向くはずです。何が苦しいのか、どのように苦しいのか、自分は自分にいったい何を訴えているのか、ひたすらに自分に問いかけるのではないでしょうか。自分の苦しみは人に分かりません。どんなに窮状を訴えてもそれを自分以外が理解することは不可能です。分かってくれと叫んでも、自分の中でその思いを解き放すこと以外に、何も手立てはありません。
 そういうことが心を見るということを通して、自分で分かってくると思います。それが分からないようでは心を見ているということにはなりません。そして心を見るということをしなければ、喜び、嬉しいは本当に喜び、嬉しいとなってこないです。表面だけのそして一時だけの嬉しさに留まってしまいます。それはやがて時が経てば薄れて変形していく、そして自分の外に求めてまたさ迷っていくだけの結果となっていきます。苦しみから自分を解き放し、本当の自由な自分と出会っていく、すなわちそれがアルバ−トへの道です。


 本当に自分は温もりであった、自分は優しさであったと自分自身を信じていない方々はこれから狂っていきます。そして学びに集ったことを呪っていくことでしょう。

 心を見ていくことが喜びです。心を見ていける今があることが嬉しい、ありがとうとなってきます。心を見てアルバ−トが分かって、本当の自分と出会えて、みんな欲ったれです。そんな思いが根底にあって、だから心を見れない、肝心なところは見ないんです。
 私はすべてが間違っていると伝えてきました。あなたのどこに正しいところが残っているのでしょうか。自分は一生懸命生きてきた、とんでもないです。地獄の奥底から生まれてきたとお伝えしても、その地獄の奥底の自分に目を背けて、私は反省してきた、私は心を見てきた、汚い自分と出会ってきた、私からすればそんなのみんな嘘つきです。周りを全部殺しまくって、そしてそんな自分さえも殺しまくって、全然優しくなんかない、嘘つくな、本当に奇麗事ではすまされないことを、やはり自分の心で本当に知るというか、そのために今までのセミナ−の時間と空間があったのではないでしょうか。
 自分の現実を本当に心で知らなければ、これからその自分のエネルギ−に翻弄されていく、それがはっきりと形となって現れてきます。私は今回波動のあの場に座らせていただいて、その危険性が多々ある方が本当に多いとつくづく感じさせてもらいました。他人事ではありません。本当に自分は温もりであった、自分は優しさであったと自分自身を信じていない方々はこれから狂っていきます。そして学びに集ったことを呪っていくことでしょう。


 あなたが本当に田池留吉を信じ、この学びで伝えられていることを信じていこうと思うなら、肉などどうでもいい、そんな捨て身の気概が芽生えてきませんか。

 肉の自分を自分だとするところから、どんなに活路を見出そうとしても、もがけばもがくほど泥沼に落ちていくだけです。他力のエネルギ−の中にどっぷりだから、そのことが分かりません。もちろん頭では分かっています。この学びの知識は充分だから、助けてくれ、救ってくれ、何とかしてくれと口が裂けても言いません。でも心は叫んでいます。ここを何とかしてくれたら、私は学びをやっていきます、田池留吉が伝えてくれているように素直になってやっていきます、だからまず何とかしてください。それではだめなんです。何とかできるのは、田池留吉ではありません。そのお手伝いはできるでしょう。それから後はあなた次第です。最終的にはあなた自身です。
 あなたが本当に田池留吉を信じ、この学びで伝えられていることを信じていこうと思うなら、肉などどうでもいい、そんな捨て身の気概が芽生えてきませんか。
 そこで、なぜ生まれてきたのか、なぜ今ここに存在しているのか、これは非常に大切な問いかけです。肉の自分をしっかり抱えながらアルバ−トの道は絶対歩めません。私が剣が峰と表現しているその思いが、まだまだ軽く軽くとらえられているようです。何度かの転生を経て250年後にまた転生されるかもしれませんが、今世セミナ−に集った方々は、おそらく今世が最大のチャンスでしょう。だからしっかり学んでほしい、私はそう思います。誰のためでもない、全部自分のためです。


 意識の流れが淀みなくそして力強く流れていることに気付き、その流れを感じていってください。そして真実の波動の世界に触れていってください。それにはご自分の心を見ていかれるということに尽きるのです。

 意識の流れに乗っている、その流れの中にある、そう私ははっきりと感じています。だから私は幸せです。意識の流れの本に思いを向けると、もう喜びだけです。それぞれの肉を通して意識達がその喜びに触れてくれています。心から飛び出してくる意識達、その意識達をあなた、その肉がしっかりと受け止めてあげてください。ひとつの肉をもらって今存在しています。それはこの喜びの波動と出会うためです。意識達があなたのそのひとつの肉を頼りに、ひとつの肉に自分達の思いを繋いでいることを、肉のあなたが、本当に心で分かってください。
 己が偉くて、そびえ立っていては、あなたの心の中に息づいている無数の意識達は永遠に救われません。確かに250年、300年という時間が用意されています。天変地異とともに歩む時間、空間が用意されています。しかし、その流れに乗る、流れに素直に溶け合っていくということは、みんなこれからのあなたの心にかかっています。
 どうぞ、意識の流れが淀みなくそして力強く流れていることに気付き、その流れを感じていってください。そして真実の波動の世界に触れていってください。それにはご自分の心を見ていかれるということに尽きるのです。心を見ていかれたならば、真実は我が心にあることが分かります。すべてのことが自分の心で分かってくるのです。それはあなたが真実だからです。このことが心で分かるということが、アルバ−トを信じているということです。


 私は意識の流れ、この本は本であって本ではありません。波動です。どうぞ、私の世界に心を向けていってください。

 一冊の本を橋渡しにして、私はあなた達と出会えていることがただただ喜びです。あなたのその肉を通して、意識達が私のほうに心を向けてくれていることを感じます。私は意識の流れ、この本は本であって本ではありません。波動です。どうぞ私の世界に心を向けていってください。これより250年後に続く時間の中でたくさんの意識達が目覚めてまいります。私、アルバ−トのもとに集う意識達の喜び、喜びの渦が私にはもうはっきりと感じられます。
 意識の流れ、その流れに乗って集ってくる意識達の喜び、喜びをこの心でただただ心で受け止めていきたいです。すべてが私の仲間です。今心に感じられる、今世肉の出会いがないかもしれません。しかし、私は確かにその意識達の存在を確認しています。私は嬉しいだけです。ともに喜び合い、ともに生きともに歩んでいきましょう、そう心で確認できるそのことがただただ嬉しいです。
 私のまだ見ぬ仲間達、きっときっと心を繋いでいってください。苦しいとき、悲しいとき、狂いそうなほどのときも、またすべてが喜びです。私達は喜びの存在です。私は心に響いてくる意識達にそう告げてやりたいです。心を広げて心をアルバ−トに向けて、ともに歩んでまいりましょう。それが私達の歩むべき道、私は250年後の出会いをただひたすら待っています。


 アルバートを知らない人が人生など語ることはできません。自分の人生を歩いてこなかった人に何が語れるのかと思います。そういうものに耳を傾け心を傾けるからおかしくなってくるのです。

 アルバ−トを知らない人が人生など語ることはできません。自分の人生を歩いてこなかった人に何が語れるのかと思います。そういうものに耳を傾け心を傾けるからおかしくなってくるのです。どんなに世間が認めても、本当のあなたはそれを絶対に認めません。どんな人生を歩んでいきたかったか、それは心を見ていかれたら、自ずと答えは出てきているはずです。そのことに素直になってくださいとお伝えしています。
 そして素直になるようにと、もうその促しがそれぞれに強く迫ってきているはずです。自分から逃れることはできません。そして全部自分だと思えたとき、心がすっと軽くなって目の前が開けてくるのです。しかしまたそれで己が出てくると、その開けたものが閉じていってしまう、本当に意識の世界は自作自演の世界です。
 タイケトメキチの世界から伝わってくるものをストレ−トに受けていける心、その心は、意識、波動の世界こそが真実の世界であると本当に心で分かる、すなわちコペルニクス的転回が絶対条件です。またタイケトメキチ、アルバ−トに心を向けやすくするために、今田池留吉という肉を持っているということを心で知らなければ、所詮肉の枠から出られないです。その肉を見る自分の心をしっかりと見つめていくことからも、いくらでも自分の間違いに気付いていける、そこから糸口が見えてくるはずです。あなたは私、私はあなた、私達はひとつ、この真実そして喜びは肉基盤では絶対に分からないということも分かってくるはずです。


 私はタイケトメキチを絶対裏切らないし、心から離すことはありません。それは私自身だからです。私はようやくその自分に巡り会ったのです。しかしそれはそこに留まるものではありません。意識、波動の世界は無限大です。無限に広がっていく、限りなく広がっていきます。

 日々、ホ−ムペ−ジが更新されています。喜びがパソコンから溢れ出しています。そしてやがてホ−ムペ−ジもなくなります。しかし、私は今と何も変わらずに瞑想を続け、パソコンに向かうことでしょう。
 そうやって私は自分の心の中をただ歩むだけです。今世心に知った確実な世界です。ゆったりと過ごす肉の時間の中で自分の心を振り返りながら、たゆまない歩みを続けていきます。それは私の喜びであり、こんな幸せな時間と空間を自分に用意してきたことを思うとき、もう私は何も必要としません。私は心です。この心が私です。そして今は肉があるから、この肉はその世界に漂っているだけです。
 私はタイケトメキチを絶対裏切らないし、心から離すことはありません。それは私自身だからです。私はようやくその自分に巡り会ったのです。しかしそれはそこに留まるものではありません。意識、波動の世界は無限大です。無限に広がっていく、限りなく広がっていきます。だから今世があって250年後の来世があってそしてその先がある、そうやって自分自身は永遠に旅を続けていく存在であり、そしてそれが私の現実です。私は本当にそう思っています。
 肉の中にしっかりと埋もれていては、「意識の流れ」も「核からのメッセ−ジ」も分かるはずはない、転回なくしては本意は分からないことはよく知ってのうえで、それでも私は嬉しいからこうしてお伝えしているだけです。


 「意識の流れ」は波動なんです。本当に真実を探し求めている人であるならば、心に大きな衝撃を受けることと思います。そして今世セミナーに集うかどうかは別として、必ずやこの意識の流れを心で感じていく道筋を歩まれると私は思っています。

 一人でも多くの方の目に触れるようにと書店の棚に並べていただくように配慮してくださった方が学びの中にはおられます。学びに出会えたことが嬉しいという思いがそういう形になって表れたのだと思います。
 私は、一冊の本を通して自分の生き方、存在の仕方を考えるきっかけになればという思いと、まだ見ぬ仲間達へという思いを込めて、自分の心で確信した世界を綴らせてもらいました。もちろんそれは真実の世界、タイケトメキチ、アルバ−トとひとつの世界だということは言うまでもありません。だからあの本は波動なんです。本当に真実を探し求めている人であるならば、心に大きな衝撃を受けることと思います。そして今世セミナ−に集うかどうかは別として、必ずやこの意識の流れを心で感じていく道筋を歩まれると私は思っています。そして250年後の出会いへと繋がっていくことを私は信じています。だからその肉もさることながら、本を手に取って読み進めている肉を通して、私は無数の意識達の存在、その思いを心に受け止めています。
 肉はそれぞれに様々な社会的背景、環境を抱えていますから、頑固で強情な部分は多々あるけれど、しかしその肉を通して意識達の喜びを感じます。まだ出会えていないけれど、私達は必ず出会える、そうそんな仲間達の喜びの声を心に感じます。意識の流れが今世大きく動き、こういう形でお伝えできることが本当に嬉しいです。
 これは余談ですが、私が当初書店にお願いしていた冊数はもう全部出払って、それ以上に動いているということをお聞きして、本が売れている、流れているという喜びよりも、ああたくさんの意識達に伝わっているんだなあと感じられて涙が出るほど嬉しかったです。さっそく追加注文をしてまた並べてもらえるように頼んできました。


 自分の好き勝手な思いを出して好き勝手なことをして言って、なおかつ生んでくれた母親を見下し呪い散々な思いを出してきた、こんな愚劣な存在はありません。私は田池留吉を通して流れるアルバートの波動からそのことを心で知りました。

 真実を探し求めている方のもとに必ず真実の声は届きます。緩やかにこれからもこの「意識の流れ」という本は流れていきます。
 真実に巡り会った喜びをともに喜び合いたいです。他力の中に沈み込んできた私達ですが、こうして心を見ていけば、本当に真実はあった、我が心の中に真実があった、私は真実だった、そんな嬉しい声に出会う日もそう遠くはありません。反対に、どんどんどんどん泥沼に自ら落ちていく道筋を辿っていく意識もあります。自己選択、自己責任、この意味を本当の意味をそれぞれが心で知っていくこれからであることを伝えてきました。
 自分が出したものは自分に返ってくるという法の中で、最も大切なことは、その返ってきたものをどのように受け止めていくかでしょう。どんと受け止めてやれるだけの自分自身を知らなければ、当然そこに埋没して自滅していくだけです。今までの私達がそうであったように、また同じ苦しみの中に沈んでいくのです。
 しかし、そうあってはならないのです。そのために今世肉をもらって学ばせてもらった私達のはずです。自分の好き勝手な思いを出して好き勝手なことをして言って、なおかつ生んでくれた母親を見下し呪い散々な思いを出してきた、こんな愚劣な存在はありません。私は田池留吉を通して流れるアルバ−トの波動からそのことを心で知りました。だから私は変わりました。それだけです、心が変わった、私の心の世界は変わったのです。


 肉に生き肉に死んでいく一生、本当に哀れでした。数え切れない転生の果てにようやく自分自身がつかんだ真実です。

 なぜ人は学業に励み、働き、またなぜ結婚するのか、なぜ子供を生むのか、その他色々ありますが、そんなことあまり深く考えることもなく、みんなそれぞれの年齢に達し時期が来ればそういうふうにしていく、してきた、そして様々な悩み苦しみと出会っていく、それもまた何となくやり過ごせるものはやり過ごし、そして泣き笑いの中でその人の一生は閉じられます。人間の一生は、それこそ形態は様々ですが、所詮その程度のものです。肉に生き肉に死んでいく一生ほど哀れなものはありません。
 肉で喜び肉で幸せと思うすぐ後から、なぜそれと相反する思いが沸いてくるのか、私自身のひとつの疑問でした。それは今、嬉しい、幸せと思った瞬間から、なぜ不安と恐怖を感じるのかという疑問でした。それもようやく自分の中で氷解しました。私は自分という存在、その価値基準が全く変わったからです。そこから自分を見つめ、周りを眺めてみると、さもありなん、全部納得です。
 肉に生き肉に死んでいく一生、本当に哀れでした。数え切れない転生の果てにようやく自分自身がつかんだ真実です。私は今世を限りに幸せの自分へと脱皮していく道筋を歩みます、そう自分に誓ってきたその思いを大切に大事に自分の中で育んできました。自分に自分でエ−ルを送りながら過ごす今というとき、かけがえのない時間、空間です。自分にありがとう、ありがとう、そう言えることが今最高に幸せです。


 はっきり語れます。私の中の真理、それは意識の流れは厳然としてありますということです。私はその流れを感じそしてその流れの中にいます。そこから物事を眺めています。

 「私はアルバ−トを信じています。」
 「私は自分の感じ広げている世界が真実の世界であり、そしてそれが私の現実であり、私自身です。」
 今、あなたの状態はこのような状態でしょうか。あるいはその兆しが見えていますか。そしてそのような方向に歩んでおられますか。
 自分の中にすべての回答がある、すなわち私の中で本当の私(真実)が伝えてくれる、このことを確立している私にとって、アルバ−ト以外はみんな偽物、虚構の世界なんです。私がこう語っても、その方が肉をしっかりとつかまえている世界にいるならば、このことはどんなにしても分かりません。分からない世界からいくら批判し、自分はこう思っていると語っても、所詮世界が違うから通じないのです。私はそのことを早くご自分の心で気付いてほしいと思っているだけです。
 こちらが上でそちらを見下げているなんていう思いは私にはありません。もし仮に私がそういう思いを出せば、私はその自分のエネルギ−によって、自ら落ちていきます。私が落ちれば、それこそもう地獄の奥底どころかそんな程度のものでは済みません。私はそのことをよく知っています。ですが、もう私にはその可能性はありません。ただこの道をひたすら歩むだけです。
 はっきり語れます。私の中の真理、それは意識の流れは厳然としてありますということです。私はその流れを感じそしてその流れの中にいます。そこから物事を眺めています。それが私の今現在の状態です。


 意識の流れが今、ひとつの形となって皆さんの目の前に提示されています。もうすでに起こりつつありますが、これから大変な時代というか、時期に突入しますよということです。

 意識の流れが今、ひとつの形となって皆さんの目の前に提示されています。もうご承知と思いますが、ただ単にセミナ−が終わるからその締めくくりに出版されたものではありません。はっきりとこのように示されたということは、もうすでに起こりつつありますが、これから大変な時代というか、時期に突入しますよということです。
 心をしっかり見てください。心を見ない方、見ようとしない方、他力そのものの方、もちろんその方々はアルバ−トを全く信じられません。セミナ−に集っていようがそんなもの一切関係がありません。セミナ−に集っているから、田池留吉と出会っているから、だからどうだと言うのでしょうか。それで救われるのなら、それで250年後へと繋いでいけると思っているのなら、それは全く他力信仰です。アルバ−トを信じていない方は、肉そのものです。その地獄の奥底にまたお帰りになるだけです。そして再び浮上は難しいかもしれません。自分の心を見ているか見ていないか、そして本当にこの道を私達とともに歩もうとしておられるのかどうなのか、その真偽ははっきりとしてきます。
 アルバ−ト殺してやる、の意識達が怒涛のように結集してくる250年後の来世を私は今心に大きく受け止めています。それはすさまじいエネルギ−です。そして大きな大きな喜びのエネルギ−です。どうぞ心の転回を果たしてこの流れに乗っていってください。心からそう思います。


 心を見て何が分かるのか、それは真っ黒な真っ黒な自分という存在です。見れば見るほどそんな自分しか出てこないです。どこが素晴らしいのか、どこに心が綺麗で慈悲深くて情け深くて心優しき人が存在するのかということです。

 心を見て何が分かるのか、それは真っ黒な真っ黒な自分という存在です。見れば見るほどそんな自分しか出てこないです。どこが素晴らしいのか、どこに心が綺麗で慈悲深くて情け深くて心優しき人が存在するのかということです。心を見て自分が出来上がっていくと思っているならそれは本当におめでたい人でしょう。自分は正しい、自分は偉い、自分は間違っていない、私は分かっている、私は学んできた、そんな思いを全部崩していってくださいと伝えてきました。
 既成概念、固定観念、全く通用しません。そんなものにがんじがらめになっている心からは真実など程遠いです。アルバ−トの波動の世界は感じられません。感じていると思っているものは、自分が過去よりつかんできた他力の神々の世界のそれなのです。しかしなかなかそういうことに気付けないしまた認めたくないのです。それを今世知っていくようにあなたの今の肉があり、今セミナ−に集い、真実の波動の世界に触れるシナリオを書かれてきたのではないでしょうか。
 それをシナリオ云々で留まっていては、肝心の目的は遂行されません。そのことを心を見ることを通して自分自身の心で分からなければ、いくら田池留吉が伝えても、全部素通りになってきた今までを、本当に自分の心で振り返ってこられたのでしょうか。
 一冊の本に出会い、中が本当に感動に打ち震える体験をされる方がこれからも出てくるでしょう。そういう方こそが本当に私達と250年後に出会ってともに喜び合う仲間だと思っています。能書きは結構、ただひたすらアルバ−トです。


 凄まじい殺戮のエネルギーなら知っているけれど、その温もり、優しさに出会ったときはまさしく驚きでした。この世にこんな世界があるのかという衝撃でした。しかし、私にはそれで充分でした。私はこの温もりと優しさであることを信じる道を歩き始めることができたのです。

 意識を変えるということは、本当に難しいです。基盤を変えるということは至難の技かもしれません。
 心を見てきた、反省を重ねてきたといっても、それらはすべて肉に埋もれながらではないでしょうかと私は伝えているのです。ああ間違ってきた、私は真っ黒ですと白旗を揚げるけれど、それは中と一致していない、肉をしっかり握りながらやっていることに気付けない、気付いてはいるかもしれないけれど、やはり離せない、だからいつまで経ってもどこまで行っても行きつ戻りつのところを、さ迷っているだけだと思います。ということは、やはり学びに対する姿勢がいい加減であり、自分にいい加減ということでしょう。それは、反省はして瞑想もしてきたけれど、目的も動機も違っていたかもしれないし、そして一番は学びに賭ける思いがどうであったかということかもしれません。
 私は心を見ていく過程で、くそったれしか出てきませんでした。そしてブラックを握り君臨することをよしとしてきた自分を心で知った私は、もう肉の私などどうでもいいと思いました。それどころではない、肉のちっぽけな世界にとらわれていては、とても私が私に懺悔できない、自分を受け入れていけないと思いました。私は何者か、私の存在はと自分の心で感じ始めてからはなおいっそう、肉にこだわるというか、そこから心を離せないということは、本当に愚かなことだと知りました。そしてどんどんやっていくうちに、自分のエネルギ−のすごさとそれを全部受けてくれる、そうまさに無抵抗の温もり優しさと出会いました。凄まじい殺戮のエネルギ−なら知っているけれど、その温もり、優しさと出会ったときはまさしく驚きでした。この世にこんな世界があるのかという衝撃でした。しかし、私にはそれで充分でした。私はこの温もりと優しさであることを信じる道を歩き始めることができたのです。
 私は私の中のエネルギ−を感じます。だから、アルバ−トを知らないままずっと私が存在し続けていたなら、間違いなく私は自分のこのエネルギ−に狂い続け、自滅の道をひた走りに走っていっただろうと強く感じます。まさに九死に一生を得た今世です。そういうものを感じなければ転回は難しいというのが、自分の体験から語れることだと思います。


 自分でどうすることもできない状況、どうしていけばいいのか全く分からない心の状態を自分が体験しなければ、みんな自分は偉い、何とか切り抜けてみせる、肉の自分を信じてそう思っています。そうです、肉なんて何もできません。しかしその肉を外しみんな委ねていこうと、それ以外にないとその心で分かれば、自ずと道は開けてくるのです。

 人は自分ではどうにもならない出来事に出会ったとき、初めて自分の無力さを痛感します。頭で考え行動し対処できる間は、いくらでも最善の努力をするでしょう。そうすることによって何らかの形が整ってくれば、その問題はそこで解決したように思うのです。しかし、根本が腐っているからまた時間が経ち、条件が整えばその腐ったものが一気に噴き出してくるということです。そしてまたそれを全力をもって何とか収めようと、あらゆる方法、手段を試み、様々な情報を得ていきます。
 私はその循環というか繰り返しが本当に無知であり愚かであることに、心で気付けたのです。それは自分が間違って存在してきたことに心で気付けたからです。根本を変えるということ以外にその解決方法はないことが分かりました。
 自分でどうすることもできない状況、どうしていけばいいのか全く分からない心の状態を自分が体験しなければ、みんな自分は偉い、何とか切り抜けてみせる、肉の自分を信じてそう思っています。肉の自分は何もできない、そう思わざるを得ない状況に自らをいざなっていく、そうしなければその偉くて立派でそびえ立っている己というものを崩していくのは叶わないでしょう。
 そうです、肉なんて何もできません。しかしその肉を外しみんな委ねていこうと、それ以外にないとその心で分かれば、自ずと道は開けてくるのです。心が広がっていくから、すべてを委ねていけることがただ嬉しい、それが自分の幸せの道だと自然に心で分かってくる、それを体験されたらいいのではないでしょうか。


 自分というものをどのようにとらえているか、転回の度合いによって、「意識の流れ」を読むにしてもホームページを見るにしても、その理解の仕方は全く異なります。その度合いが進むにつれ、本当に心で分かってくると思います。

 自分というものをどのようにとらえているか、転回の度合いによって、「意識の流れ」を読むにしてもホ−ムペ−ジを見るにしても、その理解の仕方は全く異なります。その度合いが進むにつれ、本当に心で分かってくると思います。「意識の流れ」もホ−ムペ−ジもすべてすべてそういうものです。そのことを一人でも多くの方がそして一日でも早く分かってくださいと切に思います。肉を基盤とするところからは、そこでお伝えしようとするものは何一つ分かりません。
 もちろん、私にも肉としての現実の世界があります。肉を持っている以上、その世界を無視したりはしていません。ある程度合わせていかなければならない面もあります。しかし、私は私の本当の現実を知っているから、そういうものに溺れたり、けつまずいたり、それに必要以上にこだわったりはしません。だから私の日常は非常にシンプルです。
 私は今本当に幸せです。アルバ−トが現実である私にはこれから先が見えているからなのか、ふっと田池留吉を思いアルバ−トを思うと心が一瞬にして広がっていきます。そしてそれが私の現実であり、私自身であることを実感しています。それは愚かな肉も私ですが、実は私でないということを本当に心で感じているからでしょう。そしてそういうところから、思いをこのように綴らせてもらっています。私は嬉しいだけです。ともに歩いていく、ともに存在している自分自身を感じて、表現できない喜びの中にいます。


 今、現在私は核という自覚が自分の中に芽生えています。しかし、それが特別という思いには繋がっていません。ただ核なんです。私はこれからも自分の心で確信したことをずぱっと真っ直ぐに伝えていきます。

 セミナ−会場の時間と空間を得て、目一杯くそったれを吐き出してきた私、完全燃焼した後に心に上がってくる思いと出会うに至りました。くそったれのエネルギ−はくそったれを出している心の奥をもっと覗くエネルギ−でした。くそったれのエネルギ−が大きかったので、それを受け止めてやれるまで、私自身の準備は続きました。ようやくもういいよとゴ−サインを出して、思いっきり噴き出してくるくそったれは、私には本当に心地よいものでした。
 すべてが愛の中でなされている出来事であると私は心で感じながら、くそったれが愛しく本当に愛しいと思いました。私の肉と出会った方々、心を大揺すりに揺らしてくれた方々にありがとうしか出てきませんでした。
 今、現在私は核という自覚が自分の中で芽生えています。しかし、それが特別という思いには繋がっていません。ただ核なんです。私はこれからも自分の心で確信したことをずぱっと真っ直ぐに伝えていきます。私達にはもう時間が残されていないからです。250年なんてあっという間にやって来ます。意識の世界は本当に速いスピ−ドで滞りなく流れています。気付けていないのは、肉の人間だけです。


 ご自分をチャネラーと思っている方々は、それなりに意識の世界を感じていると自任しているので、自分は肉ではないと思いがちです。しかしそれこそが、肉、肉で生きている方よりも、もっと危険な状態であることを、どこかで、できれば今世心で分かってくださいというのが、私の思いです。

 私はチャネラ−と言われる方々を誹謗する思いはありません。チャネラ−を非難する言葉を使ってきたかもしれませんが、私の中にはそういう思いはありません。ただはっきりとあなたの世界は泥沼、暗黒の世界ですということを伝えているだけです。
 肉しか、今目の前に広がっている肉の世界しか信じていない方は、もちろんご自分が狂っていることすら気付かずにいるのだから、少し話は別として、チャネラ−と思っている方々は、それなりに意識の世界を感じていると自任しているので、自分は肉ではないと思いがちです。しかしそれこそが、肉、肉で生きている方よりも、もっと危険な状態であることを、どこかで、できれば今世心で分かってくださいというのが、私の思いです。
 人の意識が伝わってくる、過去世が語ってくる、そのことを本当に自分の糧にしてきたならば、今頃はもっと意識の転回が進んでいるはずです。過去の実績、そんなもの本当はないけれど、そういうものに心とらわれている間は、その泥沼から自分を解き放すことはとても難しい、いえ不可能だと言っているのです。これは一人、チャネラ−だけのことではありません。チャネラ−を頼り崇め奉ってきた方々もまたご同様です。形は切れても心は切れていない、それは意識の世界を馬鹿にし、ご自分を最も見下げ続けている、冷たい冷たいご自分であるということです。
 以上のようなことに自分自身で気付かれていますか。気付いているならば、躊躇なくUタ−ンです。なぜUタ−ンができないか、よく考えてみてください。


 私達は、大変な過去からの歴史を抱え、今ここに肉を持ち存在しているのです。そのご自覚があまりにも薄い、薄いから、過去からの過ちよりなかなか脱却できないということなのかもしれません。

 学びは人生です。セミナ−は人生です。ここにしか真実に辿り着く道筋はありません。だからそれ以外の目的、動機でいくら学ばれても、何年学ばれても、全く合い通じるものはない、もうそういうことは分かってください。
 最初の目的、動機は全く見当違いでも、セミナ−に集い心を見ていく実践の中で、それは自ずと修正されていくはずなんです。それがなされないままでは、心が敏感になればなるほど、それだけ自分を苦境に陥れる結果になってしまいます。
 あなたを救うのは田池留吉ではありません。他力の思いの強い方々は、セミナ−後、大変です。チャネラ−であろうとなかろうと、中から他力のエネルギ−が噴き上げてくるのです。田池何とかしろの思いがもろに噴き上がってくるのです。そういうことを経て、自分の学びがいかにいい加減であったかということを心から知れば、まだいいほうだと思います。大半の方は、恨みつらみ呪いの思いを膨らませ、そしてせっかく今世自ら作ってきたチャンスをふいにしてしまい、その肉の時間を終えていく結果になると思います。
 決して、脅しでも何でもなく、それほど今という時間が大切であり、しっかりと心を見て心棒を持ってくださいと思う思いから、申し上げていると解釈してもらえればと思います。
 私達は、大変な過去からの歴史を抱えて、今ここに肉を持ち存在しているのです。そのご自覚があまりにも薄い、薄いから、過去からの過ちよりなかなか脱却できないということなのかもしれません。


 苦しみ喘いでいるその思いを受け止めてやれるのは、今肉を持っているあなたしかありません。心を見ていくということは、それが心で分かる感じられる、優しいあなたに変わっていくことだと私は思っています。

 あなたが信じようと信じまいと、私はアルバ−トが実在することを証明しました。このことは私の中では、火を見るよりも明らかな現実です。そして流れは確実にそのように流れています。抵抗し歯向かってくるエネルギ−を大きく包み込みながら悠然と流れていく、その流れを私の心は確実に受け止めています。幸せだと心の底からそう思えるのは、私はこの流れを心に感じているからでしょう。だから思えばいい、アルバ−トを思えば、流れの中に存在する私自身を感じるのです。
 アルバ−トというのは、もちろん波動です。タイケトメキチも波動です。すべてが波動の世界です。今、田池留吉という肉を持っているから、分かりやすいようで分かりにくいと思いますが、間違いなく私達は波動です。だから波動として感じることなく、どこまでも肉を前面に押し出してくるならば、私達とあなたとは出会っていながら出会っていないということでしょう。それを肉を持ちながら、お伝えしています。
 みんな真実を探し求めているのです。肉がある、ないに関わらず、みんな地獄の奥底を這いずり回りながら、真実を探し求めているのです。心を見ていけば、それが肉にも響いてくると思います。苦しみ喘いでいるその思いを受け止めてやれるのは、今肉を持っているあなたしかありません。心を見ていくということは、それが心で分かる感じられる、優しいあなたに変わっていくことだと私は思っています。


 アルバートを思う私には、己がないことを感じます。己もなければ何もない、ひとつを感じるのです。私は心であってその私が広がっていく、だから嬉しいだけ、ひとつの幸せがあるだけです。

 肉がその心で思っていることなんて、あまり大差はない、大概同じだと思います。それは、見たり聞いたりしてその感想やら思いは様々でも、みんな肉基盤だから大差はないということです。どんな立派な考え、意見であっても、結局は基盤が肉にあるならば、ひとつ穴のむじなということでしょうか。
 意識、波動、本当にその世界を感じる心と、肉が基盤すなわち肉に付随する心とでは、同じ「心」という言葉であっても全く違います。「意識の流れ」の中にもそのくだりがありますが、その部分を何度も読み直し、そして心を見るという実践を通して心で理解してほしいと思います。
 何かを感じているから心が敏感、心が敏感だから意識の世界を感じている、それはそうですが、だからといって、己という肉を離しているかどうかは甚だ疑問です。最後の砦、肝心なところでぐっと己を握っている、そのことに早く気付かれたら、私が申し上げていることはよく分かってもらえると思います。
 この波動に出会うために肉を持った、私の中でそれが鮮明に返ってくる答えです。アルバ−トを思う私には、己がないことを感じます。己もなければ何もない、ひとつを感じるのです。私は心であってその私が広がっていく、だから嬉しいだけ、喜びだけ、ひとつの幸せがあるだけです。


 心で気付くまで、その方の地獄は続いていきます。愚かな自分に出会って、また出会って、それからまた出会って、それでも気付けなければずっと地獄です。それが意識の世界の現実です。それが私達の現実です。

 心で気付くまで、その方の地獄は続いていきます。愚かな自分に出会って、また出会って、それからまた出会って、それでも気付けなければずっと地獄です。それが意識の世界の現実です。それが私達の現実です。
 私はそのことに気付いた、現象化したものを通し自分を振り返ったとき、それらは間違って存在し続けてきた私を、私に伝えてくれているのだと、はっきりそう思いました。だからこそ、自分を責めているときもあったけれど、まず私は自分の使ってきた心、思いが間違っていたと認めることができました。そしてこんな苦しい中に私はあったのだと思ったときから、私は自分を責めることもやめ、自分を解き放す方向に心を向けていきました。
 汚い真っ黒なヘドロのような思いが飛び出るたびに、私はそうだ、そうだと自分に納得でした。こんな世界にいたのでは苦しいのは当たり前で、ではどうすればその苦しみを解消できるのかと心を中に向けていきました。それはそうでしょう、苦しいのは私であって、その私を私はどうすればいいのかは、自分に聞いていくしかないと思いました。
 やがて、私はその苦しい私が私に何とも言えない思いを伝えてくれていることを感じたのです。温もりと優しさに包まれている自分を感じ、私は遠い、遠いところからやってきたことを心で感じ出したのです。長かった、ようやくだね、ありがとう、込み上げてくる思いは万感の思いです。
 嬉しかった、本当に嬉しかった、探し求めてきたものに出会ったから、もう他のことはどうでもよくなりました。


 最初に、学びたい、これだと思ったその思い、そのエネルギーが、私自身をここまで引っ張ってきました。肉はずっと分かりませんでしたが、ひとつのきっかけがあればそれでよかったのです。

 最初に、学びたい、これだと思ったその思い、そのエネルギ−が、私自身をここまで引っ張ってきました。
 肉はずっと分かりませんでしたが、ひとつのきっかけがあればそれでよかったのです。ひとつのきっかけによりこの学びに触れ、自分でこれだと思えば、それで私はそれからの自分の予定通りのコ−スを歩んでいくだけの心準備はあった、整えてきたということだと思います。
 それは250年後の来世と重なります。250年後もまさにその通りです。それまで苦しんで間違ってきた自分が何かのきっかけでそれこそ180度変わります。その時間が今世と比べられないほど速いというところが違うだけで、後はもう中は用意万端整えて待っている状態です。
 この学びについて言えば、私はその最初の第一歩はいつも単独です。誰かといっしょ、誰かと相談して、いえその前に私は単独で行動を起こしてきました。誰に左右されることもなく、何に影響されることもなく、自分の思いのままにそしてそれが肉を動かしてきたように思います。右を見て左を見てではなく、私は私だけを見てきました。そしてその見つめる方向に田池留吉という道しるべがありました。それを私は私の中でまた単独で確かめながら進んでいきました。誰も必要なかった、何も必要なかった、私にはこの道しるべがあったから、ただ私にはそれを自分の中で確かめていくことだけが必要なことでした。


 仮の肉を自分だと思ってしまうことの愚かさが、しみじみ心で分かります。自分ではない自分のために生きていくということはどういうことなのか、無知ほど恐ろしいものはないと思います。

 仮の肉を自分だと思ってしまうことの愚かさが、しみじみ心で分かります。自分ではない自分のために生きていくということはどういうことなのか、無知ほど恐ろしいものはないと思います。ずっとずっとそうしてきた自分だったと心で分かった今、肉の目を通して肉の耳を通して自分の世界を見ていることを、淡々と静かに受け止められる自分があることがはっきり感じられて、見方考え方が変わってくるということは、こういうことなんだと実感しています。
 私は今ひとつの肉を頂いています。もちろんこの肉は仮の肉だと私の中で自覚があります。私はもうそういう目で自分をそして周りの風景を眺めています。その土壌を自分の中で確立できました。これは私が今世のこの肉を捨て250年後、再び仮の肉を持ってきても、その土壌は私の中で息づいているから、その仮の肉を通してその土壌が蘇れば、それでいいだけです。
 肉は仮の肉だと分かるために肉をもらってくる、このことを私は今世その心で知りました。ああだから生まれてくることがどんなにすごいことなのかを心で感じています。そして今で言えばアルバ−トを知らなければ、仮の肉はどこまでも仮の肉、無知なまま存在しているのが自分達の現実なんだと、はっきり心で感じられます。


 肉から意識への転回だけですと言葉を重ねるだけです。それしかないんです。本当にアルバートの波動に触れてほしいです。アルバートが本当にその心で分かれば、何も説明など要らない、どれだけ待ち続けてきた自分自身であったか、心にどんどん伝わってきます。

 肉から意識への転回だけですと言葉を重ねるだけです。それしかないんです。
 ああ、本当にアルバ−トの波動に触れてほしいです。アルバ−トが本当にその心で分かれば、何も説明など要らない、どれだけ待ち続けてきた自分自身であったか、心にどんどん伝わってきます。そして心はくるりと変わります。変えようとしなくても変わります。それが変わらない、あるいは元に戻る、これは基盤が肉であるという確たる証拠です。
 みんなアルバ−トに出会いたくて、田池留吉との出会いを設定してきたはずです。そうではないんでしょうか。心をどんどん見ていけば、そういう思いと出会えるようになっていると思いますが…。
 心から心の底から沸き出る思い、熱い思いに出会った方ならば、もう大丈夫です。肉がどんなに窮状におちいろうとも、必ずその思いが蘇ってきます。土壇場でその思いと出会っていくのです。私は来世そんな体験をします。だからこそ一瞬にして転回がなし得る、その確信が私の中にはあります。そしてそのために今世があったことももう言うまでもありません。
 ところがそうでない方々は浮上するチャンスが何度あったとしても、他力の重みに沈み込んでいってしまうのです。他力のエネルギ−のすごさをあまりにも軽く見られている、上辺だけの学びなんていくら重ねても、所詮その中から抜け出せないということです。


 自分を自分で救いなさい、救えるのですよ、あなたは愛だから、どんなに真っ黒を吐き出してきても、私の中から伝わってくる思いは、そう語ってくれていました。まさに無条件、無抵抗の温もりと優しさと広がりをこの心が真正面から受けたとき、私にはもう何もありませんでした。

 自分が守っているものは何だろうか、こだわっているものは何だろうか、自分を崩していくということはどういうことだろうか、セミナ−会場に肉を運べるという幸せをかみしめながら、そういった事柄をいつも自分に問うてきました。私はそれだけの時間とか、その他何もかもに恵まれてきました。本当にセミナ−というたくさん、たくさんの学べるチャンスを得てきたことが今はただありがたいです。自分の現実を見ることができたのは、肉を持ってきたからです。今そのことがとても嬉しいと思っています。
 心を汚し落とし真っ黒を吐き出してきた自分にとって、今こんな時間と空間を自らに与えていることが、すごいと感じています。本当にすごいという一語に尽きます。
 自分を自分で救いなさい、救えるのですよ、あなたは愛だから、どんなに真っ黒を吐き出してきても、私の中から伝わってくる思いは、そう語ってくれていました。まさに無条件、無抵抗の温もりと優しさと広がりをこの心が真正面から受けたとき、私にはもう何もありませんでした。私の闇出しのときの心の体験は、だから大いなる喜びでした。吐き出すたびに心が広がっていくのが分かりました。そこは許しと受け入れだけの世界でした。
 自分の心で感じたものは絶対です。これほど確かなものはありません。だから心で感じてくださいと申し上げています。しかし、敏感だからいいのでなく、自分を信じられるか否か、否であれば、敏感であればあるほど自分を自分で狂わせていくだけです。


 委ねる、全部を託する、これはアルバートを知らなければできません。アルバートを知らない心で託するというのは、すべてが他力です。もう全部を任せますという心の奥底は欲です。そして不安と恐怖が渦巻いている心の世界です。

 不動の心とは、アルバ−トを思う心です。肉を持っている以上、心は揺れます。当然です。でも心は不動です。一見矛盾しているようですが、私の中では矛盾はありません。その不動の思いが波動となって流れていきます。
 委ねる、全部を託する、これはアルバ−トを知らなければできません。アルバ−トを信じているからこそ、任せられるのです。何に任せられるのか、アルバ−トにです。それ以外にはありません。だからアルバ−トを知らなければ託することができないということです。アルバ−トを知らない心で託するというのは、すべてが他力です。もう全部を任せますという心の奥底は欲です。そして不安と恐怖が渦巻いている心の世界です。
 アルバ−トは喜びです。それは私達の本質です。だから託すること、委ねること、任せることが喜びとなってくるのです。アルバ−トの中にあることをその心で知れば、それ以外に求めるものも願うものも何もない、すべてが消え去っていきます。
 私達はすごい学びをしています。それは言い換えれば大変幸せな存在であるということです。肉では色々出てきます。今まで間違って存在し続けてきたのだから、そんなの当たり前です。しかし、それをプラスすなわち喜びとして、よかったとしてとらえていくか、どこまでも肉、肉すなわちマイナスのまま放置していくか、そこが分かれ目、大きなポイントです。
 アルバ−トを思う不動の心、自分の中で聞いてみてください。


 肉で見ればどんなに大変なことも、みんな喜びへと返していけるのは、考えられない非常識の世界のことではありません。もともとすべてが喜びだけです。

 肉で見ればどんなに大変なことも、みんな喜びへと返していけるのは、考えられない非常識の世界のことではありません。もともとすべてが喜びだけです。間違ってきたから、ずっと苦しんできたから、もう苦しむのはやめようと地獄の奥底から這い上がってきたことを、しっかりと心を見るということを通して私達は分かっていくだけだと思います。
 必死になって本当に必死になって温もりを安らぎを、そして真実の自分の姿を知ろうと、こうやって肉をもらって生まれてきた、それが自分であると知ればもう嬉しいだけではないでしょうか。しかし、肉に生きる方にはそれは通じません。どんなに中から叫ぼうとも、そんなものは自分ではないと耳も貸さなければ、何もしないのです。何もしないというより、できないということでしょう。そして苦しみの中にまた沈んでいってしまうだけなのです。そういうことが、本当に心に響いてくれば、必死になって自分を見つめていくでしょう。そして見つめれば見つめるほど、肉をもらってきたことがただただ嬉しいとなってきます。
 もちろん意識が本質ですが、肉が傷めばその対処はします。しかし、同じ対処をしてもそこから流れ出る思いは、真実を知っているのとそうでないのとでは雲泥の差です。肉体細胞から流れる優しさをしっかりと受け止めて、その肉体細胞とともに存在することを喜びとする思いを広げていくことができれば、たとえ肉が病んでもということだと私は思っています。肉体細胞はアルバ−トしか流していない、私はそう感じています。


 肉に閉じ込められた世界から自分を自由に解き放すことが、本当の喜びと幸せに繋がっていくことだと分かっていくにはアルバートしかありません。

 過去世なんかいくら分かっても仕方がない、人の意識、人が今何を思っているかなんて、そんなこといくら知ったところでそれでどうなるものでもなし、そういうもので私の中は解決などしない、学び始めてからまもなくそう感じました。
 それよりも、なぜ人は生まれてくるのか、なぜ人は死んでいくのか、愛とは何だろうか、人の優しさとか温もりとかとそれとは違うものなのか、もっとそういうものに確実に答えてくれるものを自分の中で模索しながらのセミナ−でした。
 なぜ肉を思えば苦しみが沸き起こってくるのか、私はこんなとらわれから自由になりたい、もっと自分の心を自由にしたい、ではそうなるにはどうすればいいのか、どうすればもっと心が軽やかになるのか、ずっとそういうところに突き当たっていました。やがて肉だとするその思いこそが根本的に間違っていることに心で気付いたとき、心の中の疑問は氷解し始めたのです。
 「愛」と「死」です。肉を本物として存在し続けてきた私達にとって、これはそれぞれが必ずクリアしなければならない課題だと私は思っています。そしてそれをクリアするにはアルバ−トしかない、私は自分の心の体験よりそう断言できます。そこを自分の中でクリアできなければ、意識、波動として自分を感じていくことはまず無理でしょう。
 肉に閉じ込められた世界から自分を自由に解き放すことが、本当の喜びと幸せに繋がっていくことだと分かっていくにはアルバ−トしかありません。


 波動の勉強は、もちろん前に出られた方だけの勉強ではありません。しかし、前に出られた方にとっては大変大きなチャンスなんです。すごいチャンスを自分自身に与えているんです。それをしっかりと認識なさってください。

 波動の勉強は、もちろん前に出られた方だけの勉強ではありません。しかし、前に出られた方にとっては大変大きなチャンスなんです。すごいチャンスを自分自身に与えているんです。それをしっかりと認識なさってください。ご希望されるならば、しっかりとその準備をなさってから、そして自分に与えたチャンスを最大限に活かしてほしいと思います。
 心を開くのも、心の向け先を変えるのも、みんな自分自身です。あそこに座ったから開けてくれる、変えてくれるのではありません。確かにほんの少し風穴は開くかもしれません、いえ開きます。しかし、それをその後どのように活かしていくかはあなた自身の問題です。風穴が開くとはどういうことなのか、自分の間違いがはっきりと形となって現れてくるのです。そのとき、いったい自分は何を信じていくか、何を基準にしていくか、そこのところをしっかりと自分の心で確立できなければ、間違いなく自滅していくということを、私ははっきりと語らせてもらいました。
 その明暗がはっきりとしていく流れを私は感じています。本当にアルバ−トを心に確立できなければ、私達と250年後に出会ってともにということはありません。その心を確立するか否かはそれぞれが決めていくことだと私は言っているのです。
 私の思いは、250年後にみんなと出会いたい、そしてともに次元移行を果たしたい、ということです。だから心を見てくださいと私はただただそのようにお伝えするしかありません。


 肉を本物として存在してきた意識にとって、その肉体細胞が病む、すなわち死に直面する現象が絶好のチャンスだと思います。そのことにより、ようやく学びを真剣にとらえていける、自分とは何か、肉とは何かを真剣に考えていくのではないかと思います。

 ただひたすらに素直に真摯に自分と向かい合っていく、自分を優しい目で見つめそして受け止めていく、肉を持っている今、自分に許されている最大の愛だと私は思います。アルバ−トを知って、本当にそうだと思います。優しさの中にあることを痛切に感じます。何度も何度もこんなチャンスを自分に与えてきたんだ、生まれてくることはそういうことなのか、だからありがとう、ありがとうしかないなあ、アルバ−トを知れば自然に分かることでした。
 色々な現象を通して、本当の優しさとか温もりの波動と出会っていくと思いますが、肉を本物として存在してきた意識にとって、その肉体細胞が病む、すなわち死に直面する現象が絶好のチャンスだと思います。そのことにより、ようやく学びを真剣にとらえていける、自分とは何か、肉とは何かを真剣に考えていくのではないかと思います。
 肉体細胞は優しいです。肉体細胞は喜びです。喜びで愚かな肉の思いを受け止めてくれています。私はそのことを心で感じます。私もいつかは今のこの肉を置いていくときがやってきます。どんな状況の中でそうなっていくかは分かりませんが、私は本当の温もりも優しさも喜びもこの心で知っています。だからそのときには肉の思い、肉の心の揺れはその中に吸収されて、肉体細胞にありがとうの思いが自然に流れていくと思っています。そしてそれは肉体細胞の波動と合い、それがまた私自身にありがとうと返ってくる、そういう流れの中で流れていくのだと私自身は感じています。


 何もなくても幸せ、本当に本当でした。アルバートが現実、そう心で分かったなら、何もなくても幸せがよく分かります。抱えきれないほどそして満ち溢れています。それが私自身でした。

 何もなくても幸せ、本当に本当でした。
 アルバ−トが現実、そう心で分かったなら、何もなくても幸せがよく分かります。抱えきれないほどそして満ち溢れています。それが私自身でした。だから肉はもう特別なものは何もいらないです。今日一日を健やかに爽やかになごやかに過ごしていけたら、それでいいのです。そしてそれは私にはそんなに難しいことではありません。
 何かが起こっても、心の中のアルバ−トが現実であれば、自分を見失うことはないし、揺れた心の針はまたある一定の方向を確実に指します。心の中の現実がアルバ−トだから、心が自然とそうなっていくのだと思います。
 頭の理解では、このことはできません。ひとたび何かが起きると、心の針は固まった状態になってしまいます。針は肉を指したままの状態で動きません。またアルバ−トを信じていない敏感な心は、その針は狂ったように回りっぱなしです。
 どちらも大変です。その意識の世界がこれからさらに大規模に現象化していくということですから、地球人類の歩んでいく道筋は大変です。しかし、一方でそれはまた大いなる喜びと心で気付く流れとなっているからすごいと思います。
 すべての事柄を個々の存在としてではなく、大きな意識の流れとして見つめていける、そんな心の状態であることを最近の私自身は確認しています。


 肉は影、肉の世界の出来事は影です。それが心でしっかりと分からなければ、何も全く学んでいないのと同じです。

 肉は影、肉の世界の出来事は影です。それが心でしっかりと分からなければ、何も全く学んでいないのと同じです。男であれ女であれ、そんなことは本当はどうでもいい、取るに足らないことです。それよりもひとつの肉を持ってきた意識として、本当にそのことをどう思っているのか、その存在の仕方が大問題です。根底から何もかもガラリと変わるということが意識の転回ということです。そんな甘ったるいものでもなく、生易しいものでもありません。
 私はこの学びにすべてを費やしてきました。私の思いはずっとそうでした。間違ってきた自分と出会うために生まれてきたことが確認できて嬉しいだけでした。だからすさまじいエネルギ−と出会うたびに、心が優しくなれました。心から吹き荒れるエネルギ−達が本当に喜んでいることを、心からの懺悔とともに何度も何度も体験してきました。どれだけ優しかったか、どれだけ温もりを伝えてくれたか、そんな意識達に地獄に落ちろと叫び続けてきた自分自身が、もうどれだけ愚かであったか、しかし同時に嬉しい、ありがとうの繰り返しを自分のこの心でしっかりと感じてきました。
 私はアルバ−トとともにあります。アルバ−トを待っていた意識です。だからアルバ−トを思えば、タイケトメキチを思えば本当に嬉しい、喜び、ありがとうと心から沸いて出てきます。アルバ−トを思えば、ただただ嬉しい、お母さんありがとう、そんな思いが広がっていきます。


 アルバートに出会っていない、アルバートが実在すると思っていない方には、私のこの思いとか喜びとか幸せはたぶん分かってもらえないでしょう、そう思います。

 アルバ−トに出会っていない、アルバ−トが実在すると思っていない方には、私のこの思いとか喜びとか幸せはたぶん分かってもらえないでしょう、そう思います。
 肉を持ち肉の生活が流れている中で、本当に幸せ喜びだと心からふつふつと沸いて出てくるこの思いこそが、唯一私には確かなものなんです。そして田池留吉という肉との出会いを私は本当に喜んでいます。それは決して肉の次元のものではありません。ただ単に嬉しいとかそういうものではなく、その段階をはるかに超えたものです。信じられないほど、そうその出会いが本当に信じられないほどの喜びです。田池留吉から流れる波動の世界を感じていくと、心の底からこれだ、これだ、これをずっとずっと待っていた、もうその思いが一瞬のうちに広がっていくのを感じます。
 アルバ−トは私のすべてです。そのアルバ−トに出会った今世の喜びは本当にすごいです。私の中ではもうすべてが250年後を指しています。250年後の出会い、そしてその後の展開を心に大きくとらえています。肉にとらわれている方には、こんなこと何度語っても分からない世界です。しかし、心で感じている私にはそのことしか語れない、それが現実の世界だとしか語れないのです。


 肉を自分と思うならば、この先どうなっていくのかという底知れぬ不安と恐怖があります。だから神、仏にすがり何かにすがり、その不安と恐怖を打ち砕くようなパワーを求めて、自分を小さく小さくしてきたということです。その心の変遷を嫌というほどしてきました。

 心の移り変わり、心の変化、人のそれは分からないけれど、自分のそれは確かです。こんなに心というものが、心の世界が変わるのかなあという感想を持っています。
 何がそうさせたのか、いえ本当のものに触れたら誰でもそうなるのだということを今世証明したということでしょう。特別なものを何も携えていない、特別なことは何もしていない、だからいい、普通で普通にやっていたら誰でも本当のことが分かるということ、そして、本当のことが分かれば、これほど幸せなことはない、自分という存在、これからどうあるべきか、全部心に伝わってきます。そこには喜びと幸せ嬉しさしかありません。なぜならば自分のこれから先が見えてくるからです。幸せへ喜びへといざなっていける自分を心で感じるからです。
 自分を肉と思うならば、この先どうなっていくのかという底知れぬ不安と恐怖があります。だから神、仏にすがり何かにすがり、その不安と恐怖を打ち砕くようなパワ−を求めて、自分を小さく小さくしてきたということです。その心の変遷を嫌というほどしてきました。誰一人例外なくそうでした。
 しかし、私はそれにピリオドを打とうと一大決心をして今世生まれてきました。そのことは自分の中ですでに確認済みです。この決意の程はすごいです。そしてその決意が達成された今、後、私が肉を必要とするのは、アルバ−トが肉を持つときです。アルバ−トが肉を持つから私もまた肉を持ってきます。そのシナリオ、ともに、肉もともに歩んでいくシナリオは私の中で出来上がっています。


 私は肉の喜びと幸せを得るために、今世の肉を持ってきたのではありません。それがはっきりと心に伝わってきます。

 私は肉の喜びと幸せを得るために、今世の肉を持ってきたのではありません。それがはっきりと心に伝わってきます。私の環境は抜群に整えられています。今世、私が選んできたものには何の狂いもありませんでした。それは私自身がなぜ生まれてきたのかを心で知ったから分かることでした。自分は肉ではないことを、心から知るということはこういうことなんだと今はっきりと分かります。
 何一つとして無駄なものはなく、心が気付けばみんなすべて最高を選んでいることが分かる、だからすごい、すごいの連発です。気付けないから、様々な苦しみが自分を覆っていくのだと思います。全部自分でやっている一人芝居、本当に意識の世界はすごい、本当の自分はすごいなあと思います。
 ああ、だから転回しかない、これのみです。それができたなら、もうすでに肉も幸せであり喜びなんです。何も幸せになろう喜びを感じたいと思わなくても、もう幸せで喜びです。それが悟りと言えば、悟りでしょう。今世、ようやくそのことに気付いた、目覚めたということです。あまりにも愚かでした。長いときを経てきました。そしてこれからその集大成を迎えます。もう嬉しい、そう嬉しいだけです。ともに歩めるこれからは嬉しいだけです。この喜び、心で少しでも分かってくれたらと思うだけです。


 どんなにチャンスが巡ってきても、己偉しと欲深い方、素直でない方は大変難しいです。

 全部、自分だから何もかも自分で実践していかなければ、中は何も変わらないということを、今一度心で確認しておいてください。
 田池留吉を求める心、アルバ−トを呼ぶ思い、そこに流れるものをしっかりと今確認していなければ、他力の肥溜めから出ることはできません。根底に他力のエネルギ−がしっかりと流れています。それをしっかりと確認しながら、波動の勉強のあの場に座ってください。文章はいくらでも綴れるけれど、波動はそうはいきません。全部バレバレです。
 確かに感じます。間違ってきたとか嬉しいとか、さらには今までとは全く違う何かを感じるかもしれません。しかし、それもその方が今までどういう思いで学んでこられたかが大きく左右します。そしてさらに大切なのは、ご自分のこれからにそれを繋いでいけるかです。夢をもう一度ではそれ切りでしょう。またどっと他力のエネルギ−の中に埋没してしまう結果となってしまいます。後出てくるものは、もうお分かりでしょう。
 どんなにチャンスが巡ってきても、己偉しと欲深い方、素直でない方は大変難しいです。そういうことに気付けていない、すなわち心を見られていないからです。感じたからそれでいいのではなく、大事なのは心で感じたものをどのように自分の中で育てていくかです。それには真面目さと素直さ、学びに対するひたむきな姿勢が必要です。


 本当のことが分かってくると、何が嬉しいと言って肉をもらった幸せと喜びと嬉しさに匹敵するものは何もありません。そういうことが分からなくなったから、肉の喜びと幸せを探しまくって、挙げ句の果てに偽物をつかんで一生を閉じていくのだと思います。

 心を見てください。本当に今心を見てください。見ていけばいくほど、どれだけ幸せかが分かります。真っ黒でどうしようもなく愚かな自分に落ち込んでいる暇などありません。それがたまらなく嬉しいです。嬉しくて嬉しくて、ああ生まれてこれてよかったと心の底から思えるはずです。本当に心を見ていけば、そんな喜びがぶあっと広がってきます。
 私はどんな私でもいいんです。今、受け止めていけることが嬉しいだけです。肉の心はまだまだ狭いけれど、アルバ−トとともにある私自身は、自分の中で両手を広げて待っています。その優しさと温もりは私に喜びと幸せを伝えてくれます。それは例えようもない世界、どこまでもどこまでも優しさと温もりに満たされて、ともにある喜びと幸せに包まれています。それが私の本当の世界、そのことを私は感じ信じているだけです。だからこそ、肉は愚かだと本当に思えるのです。そんな愚かな肉を上げたり下げたりするのは、もっと愚かです。しかし、本当のことが分かってくると、何が嬉しいと言って肉をもらった幸せと喜びと嬉しさに匹敵するものは何もありません。そういうことが分からなくなったから、肉の喜びと幸せを探しまくって、挙句の果てに偽物をつかんで一生を閉じていくのだと思います。
 アルバ−トが分かれば肉も喜び幸せ、これは1+1=2の意識の世界の算術です。


 250年後が現実のものとして心に響いてくる今、私はできるだけ多くの方にその一端でいいから感じてほしいです。肉は欲いっぱい、その欲いっぱいの肉が前に出られてどれだけのものを感じられるか分かりませんが、私は喜びでその方と向かい合いたいと思っています。

 真っ直ぐにただひたすら真っ直ぐに、私の意識の世界はもうそんな感じです。アルバ−トに出会うために生まれてきた私には、それしかありません。本当に嬉しいです。
 嬉しさだけで生きていけるのか、現実は厳しい、学びの中からも依然としてそのような思いが伝わってきます。アルバ−トを感じさせろ、本当の自分と出会いたい、感じれば出会えれば信じてやる、これは極端な例えかもしれませんが、案外当たらずと言えども遠からずではないでしょうか。
 全くお門違いの方もおられますし、その他色々な思いで集っておられるのです。しかし、私はそんなこと一切お構いなしです。私は自分の感じ信じる道を真っ直ぐに突き進みます。もちろん、私の中に、皆さんと250年後に出会いたい、きっと心を繋いでくださいという強い思いがあります。何度も何度も同じことの繰り返ししか私は語れないけれど、そしてそれは私の中にその強い思いがあるからこそまた語れるのだと思います。
 とにかく、250年後が現実のものとして心に響いてくる今、私はできるだけ多くの方にその一端でいいから感じてほしいです。肉は欲いっぱい、その欲いっぱいの肉が前に出られてどれだけのものを感じられるか分かりませんが、私は喜びでその方と向かい合いたいと思っています。


 自分を救い自分を支え自分を生かしているのは、紛れもなく自分自身です。アルバートとともにある自分自身です。私はその自分自身を感じ信じています。だからその思い、その波動に触れ、どんどんどんどん自分を解き放していく喜びと幸せを心で感じています。

 血の繋がり、肉の繋がりは肉を持っている以上ある程度考慮していく必要はあります。しかし、それもみんな自分の心を見るためのものです。つまずけば心を見て引っかかれば心を見て、そして思うのはアルバ−トです。そうしていくことが、自分と繋がっている周りの方々を本当に大切にしていくことだと私は思っています。肝心なものを抜きにしての相互扶助などは本当に空しいものです。
 まず自分自身が本当に幸せで喜びを感じていくことです。自分が本当に幸せで喜びであるならば、肝心なときに肝心なことを真っ直ぐに言えるはずです。それが本当の自己主張です。後は適当につきあって流していけばいい、それが私の生き方です。
 自分を救い自分を支え自分を生かしているのは、紛れもなく自分自身です。アルバ−トとともにある自分自身です。私はその自分自身を感じ信じています。だからその思い、その波動に触れ、どんどんどんどん自分を解き放していく喜びと幸せを心で感じています。私は私の中に戻れるのです。どんなに心が揺れても、戻れる私を私は知っています。どこへ戻ればいいのか、戻ればどうなるのか、全部私は知っている、タイケトメキチをそしてアルバ−トをただ呼べる私があることを知っています。


 間違って存在しているものは必ずその軌道修正を促されていきます。促しているのは何なのか、誰なのか、それは全部自分です。そのことを心を見るということを通して心で分かっていくために、ひとつの肉を持ってきたということでしょう。

 信じる喜びと幸せ、信じられる喜びと幸せ、すべてを託していける喜びと幸せ、存在が嬉しいそしてありがとう、出会いをありがとうございます、言葉で置き換えればそういうような思いが伝わってきます。
 あなたは今何を思っていますか。しっかりと自分を見つめておられますか。あなたを本当に必要としているのは、あなた自身であることに気付かれましたか。あなたを待っているあなたには代替がありません。あなたの肉はそういう意味で非常に大切なものなんです。その意味を取り違えてそして全く何も知らずにきたということです。それに気付くために様々な現象を自らに与えていきます。間違って存在しているものは必ずその軌道修正を促されていきます。促しているのは何なのか、誰なのか、それは全部自分です。そのことを心を見るということを通して心で分かっていくために、ひとつの肉を持ってきたということでしょう。
 そのことを心で知れば、どんどんどんどん自分の間違い、愚かさに気付くとともに優しさと温もりの自分自身を感じ、ただもうありがとうしかないことが分かってくるはずです。誰にありがとうか、何にありがとうか、それも全部自分にです。
 学びは人生の指針、確かにそうです。しかし、意識、波動の世界を広げていけば、その意味合いも全然違ってくることに自ら気付いていけるでしょう。


 神、仏、天使、宇宙のパワーなど存在しません。全部架空の世界です。ましてや、いまだにイエスや仏陀などとこだわっているのではお話になりません。それが心ではっきり分かるまでアルバートの世界は分かりません。

 神、仏、天使、宇宙のパワ−など存在しません。全部架空の世界です。ましてや、いまだにイエスや仏陀などとこだわっているのではお話になりません。それが心ではっきり分かるまでアルバ−トの世界は分かりません。その一端は感じられるでしょう。しかし、架空の世界を実在だと思っている心がそれをたちまちのうちにかき消していきます。それほど他力のエネルギ−の中にがんじがらめであると知ってください。それを心で分かるだけでも今世の大きな一歩です。それを感じた、分かったと己を表しているようではお粗末で幼稚です。
 他力のエネルギ−のまま、そのままで存在していることに心で気付けたなら、今世は上出来だということになるかと思います。皆さん、貪欲です。大きな何かを求めているのではありませんか。現状を把握しないで、そういうことばかりに心を向けているような感じがします。私と比較対照はできません。追いついて追い越す目標でもありません。それらは全部肉です。肉の次元で私を見ていることに気付かれたならと思います。
 また、くそったれを出しなさいと言われたら出したらいいだけです。簡単なことです。ただしその出し方は人それぞれです。一様ではありません。要は自分を自由に解き放してあげるということをしていけばいいのです。
 くそったれは喜びです。神、仏、天使、宇宙のパワ−、その他諸々の他力を抱えていては、このことは分からないでしょう。ということは本当の喜びにも幸せにも程遠いということです。


 肉の人はどこまでも肉を前面に押し出して語られます。決してそれでは通じ合わないということを、今世の時間の中で知ってほしいと思っています。

 250年後に私はこの人と出会って、あの人とも出会ってというふうに、私は250年後の来世をそのようにとらえていません。確かにこの人と感じるときもあります。それはその方を通してその方の背景に広がっている意識達という思いを私は感じているのだと思います。
 私の来世の肉とアルバ−トの肉と出会うこと、これは確かです。それがなければ私達の大事業は成し得ないことを私は感じています。それは自分が特別であることを言っているのではありませんが、聞きようによってはそうとらえられるかもしれません。それはその方のほうの問題であって、私は事実だけを淡々と述べているつもりです。
 とにかく、劇的な出会いはあります。そしてその出会いによって真実は広く速く広がってまいります。その中に今世こうして、学びの中で出会えている方々が多くいらっしゃるというのも事実その通りです。私はしかし、その一人ひとりをどうとかとは思っていません。意識の流れの中の意識達という観点から私はとらえています。
 肉の人はどこまでも肉を前面に押し出して語られます。決してそれでは通じ合わないということを、今世の時間の中で知ってほしいと思っています。せっかくの今世の時間をと私は思ってしまうのです。


 残された肉の時間、なおいっそう「意識の流れ」を師としてただひたすらひとりで学んでいってください。自分の心と真向かいになり本気になって学んでいってください。すべての回答はあなたの心の中にあることを信じて信じてご自分を大切になさってください。

 学びは基本的にひとりです。これからそれぞれの地域なりグル−プなりに分かれていくことと思いますが、今世学ぶべきものはすでに全部学んでいます。後は素直に実践するだけです。そのために、田池留吉著「意識の流れ」が遺されています。この本はすべてを網羅しています。平易な言葉の中に、学びのエッセンスが凝縮されているのです。このことは、心で読むということを通して、必ずやあなたの心で分かってくることでしょう。
 アルバ−トへの道を歩き始めている方もいらっしゃいます。しかしまだまだ多くの方々は、その足元がおぼつかないのが実際のところではないかと私は感じています。そうであるならば、残された肉の時間、なおいっそう「意識の流れ」を師としてただひたすらひとりで学んでいってください。自分の心と真向かいになり本気になって学んでいってください。すべての回答はあなたの心の中にあることを信じて信じてご自分を大切になさってください。


 気付き、目覚め、天変地異の喜びのエネルギーが満ち満ちて、ともに喜びへと変わっていけるこれからの時間と空間、素晴らしい展開が用意されています。

 素晴らしい時間と空間をありがとう、地獄の底の底の奥底から這い上がってきた意識達の喜びの歓声が響いてきます。そしてもっともっとその歓声が大きくなって、もっともっと喜びの渦の中で喜びを確かめ合える、そんな時間はもうすぐそこまで来ています。
 気付き、目覚め、天変地異の喜びのエネルギ−が満ち満ちて、ともに喜びへと変わっていけるこれからの時間と空間、素晴らしい展開が用意されています。意識の大きな流れは、すべてを包み込み悠々と流れていきます。優しさと温もりが惜しむことなく注ぎ込まれ、悠久のときを経ながら流れていくのです。
 肉に留まる意識達に促しが与えられていきます。次から次へと気付きなさい、目覚めなさいとその内外から促しが与えられていきます。どうぞ喜んで受けていってください。
 肉は何ほどのものはありません。その気付き、その目覚めを促す天変地異はすでにもう始まっています。自然現象然り、肉に起こる出来事然り、すべては真実に目覚めていくための大いなる計らい、それは肉ではどうすることもできません。肉の無力、無能、愚かさをただただ心で感じ知っていくためのものです。止められない流れ、怒涛のように押し寄せてまいります。


 私達は狂っている状態です。自分が温もりであり優しさであり喜びであることを信じられない方々は、これからその狂ったエネルギーが表面化してきます。

 待って待ってようやく出会えた、この喜びは尽きることはありません。宇宙に繋がる無数の意識達とともに、アルバ−トへ帰ることを誓ってきた私、ようやくその時を迎えようとしています。このことを心で感じている私にとって、どんなに喜びであるか、どんなに幸せであるか、心の底から沸き起こる思いは確かです。だから言える、私は真っ黒が嬉しい、真っ黒が愛しいです。私は喜びだと知っているから、真っ黒を喜びで受け入れていける、真っ黒で自滅しないということです。
 アルバ−トを信じられない方は、間違いなく自分の真っ黒により自滅していきます。自分の真っ黒にです。それは絶対に自分以外に起因することはありません。冷たくてそびえ立っているからそれが分からなくなってしまったということでしょう。
 私達は狂っている状態です。自分が温もりであり優しさであり喜びであることを信じられない方々は、これからその狂ったエネルギ−が表面化してきます。ひとつ何かきっかけがあれば、自分の中に眠っていたそのエネルギ−が噴き出してきます。もともとタイケトメキチをアルバ−トを信じていないから、そういう状態になれば心を合わすことができない、そのエネルギ−に飲み込まれていくだけです。決して他人事ではありません。その自覚がないあなたが一番危険かもしれません。


 すべてのことはアルバートを知り感じ信じている、そうであるかないかそれだけで、その結果が現象化してくるだけです。

 私は私にありがとうしかありません。肉の私を見る目が柔らかく優しくなりました。それは単にこの肉だけでなく、周りを眺める目が全く変わったことを感じます。
 肉を通して苦しみしか感じられなかったこれまでの転生でした。肉は苦しみ、生まれてくることは苦しみそして死んでいくことも苦しみ、私の中でずっと固定したままであったその思い、今世はそれが崩れていったのです。完全とはいきませんが、後はこれからの体験を通して私は学んでいけると思っています。
 生まれてくることは喜びそして死んでいくこともまた喜び、そう私の中で変わっていったことが、自分にとって何よりの喜びと幸せです。アルバ−トの波動が気付かせてくれました。生きるということも死ぬということも、アルバ−トの中にあるんだと心で気付いたときから、ただアルバ−トを思いアルバ−トに心を向けていればいいということを知りました。
 すべてのことはアルバ−トを知り感じ信じている、そうであるかないかそれだけで、その結果が現象化してくるだけです。それは例え形は同じようでも、受ける側の心の世界は全く違います。そのとき幸せですか、嬉しいですか、ありがとうですか、自分に聞いてみたときに、心に返ってくる答えがあります。「はい」か「いいえ」で今の自分の現実が即座に分かります。肉を持つということは、これほどの愛の中にあると感じられませんか。


 自分に本当のことが伝えられることが本当の優しさであり温もりです。そのチャンスに何度も巡り会ってきたのが私達ではないでしょうか。

 大きいか小さいかそれは定かではありませんが、巡ってきたチャンスを逸してきたのではないでしょうか。チャンスはこれからも巡ってくるでしょう。ただ、ここぞという時に活かせるかどうか、それが問題です。
 肉は確かに愚かです。肉は肉を引きずっていきます。その線引きをいつどこでするか、できるかということは、自分の中の判断です。自分の中が定まれば、それはごく自然に形となって表れてきます。愚かな肉を持ちながら、真実に目覚めていくというシナリオをみんな描いているのです。肉を持たなければ目覚めるということはあり得ません。
 肉は愚かだ、そのことに逃げないでごまかさないで、自分をしっかりと見つめていくことだと思います。自分を見つめる、そこに何が見えますか。そのもっと奥の奥を見つめたとき、自分の叫びを感じられるでしょう。
 優しくなっていってください。自分に優しくなっていってください。本当に優しくなれたとき、肉は肉を引きずらなくなります。線引きと表現しましたが、それは切り捨てではなく、自分を知るという優しさです。だからともに生きていけるのです。ともに歩んでいけるのです。
 自分に本当のことが伝えられることが本当の優しさであり温もりです。そのチャンスに何度も巡り会ってきたのが私達ではないでしょうか。


 肉は肉の常識の中で動きます。しかし、私の世界はそれとは決して妥協しません。相容れません。心に響いてこないものは響いてきません。即座に違うなあと感じます。それは言葉ではないし態度でもない、やはり波動です。心は敏感にキャッチします。だから黒のものを白とは言えません。

 またともに学べますね。私は嬉しいだけです。こうして肉を互いに持って学べることは最高に喜びです。アルバ−トの世界、アルバ−トの波動、その一端に触れるチャンスがまた巡ってきました。嬉しさだけで喜びだけで、ありがとうだけでセミナ−会場に集ってください。
 今、このような時間と空間を持てることが信じられないほどの喜びです。みんな予定されてきたことであり、これは奇跡ではありません。喜んで喜んでその時間と空間を共有していきましょう。そこには個はありません。ひとつの世界です。私はそれを心で感じています。そして己すなわち欲を広げている方々とは決して通じ合わないことも知っています。
 肉は肉の常識の中で動きます。しかし、私の世界はそれとは決して妥協しません。相容れません。心に響いてこないものは響いてきません。即座に違うなあと感じます。それは言葉ではないし態度でもない、やはり波動です。心は敏感にキャッチします。だから黒のものを白とは言えません。波動がすべてを物語っている、このことを私は毎回のセミナ−でしっかりと感じさせてもらっています。私にとって本当に素晴らしい学びの場です。残り少ない場を大切にしてまいります。


 生まれてこれたことが喜び、泣き笑いの人生なんて人生ではない、そう心から思えるご自分に蘇ることが幸せの第一歩です。

 私達は今、自分の心は自分で救うということを学んでいます。そういう時間と空間を自ら設定して、地獄の奥底から這い上がってきた、例外は一人も存在しません。それが心で分かれば、もう何も言えないはずです。生んでもらったこと、それだけが嬉しい、ありがとうとなってきます。すさまじいエネルギ−を感じれば感じるほど嬉しくなってきます。決してそのエネルギ−に振り回されることはありません。なぜならば自分は温もりであり優しさであると心から信じられるからです。幸せとは喜びとはどういうものなのか、少しでもそのことを自分の心で感じ、間違った人生を歩いてきたことを心で気付かれたなら、後は残された肉の時間の中で実践を通して、その心を膨らませていけばいいのです。生まれてこれたことが喜び、泣き笑いの人生なんて人生ではない、そう心から思えるご自分に蘇ることが幸せの第一歩です。
 どんどん幸せに気付き幸せを感じられる時間、空間を自らに与える方と、どんどん泥沼に沈み込んで呪いと恨みの中で苦しんでいく方と、本当に明暗がはっきりとしていきます。
 何が幸せで何が喜びであるのか、それはみんな自分の中に回答があることを、心を見るという作業を通して心で分かってください。誰も教えてくれません。自分が気付くだけです。


 自分と自分の世界があるだけだということを感じています。まさに自作自演の中で喜んだり苦しんだりしてきたのだと思います。

 人それぞれに悩みも苦しみもあるでしょう。人から見ればたわいないことでも当人にとっては大変な悩み苦しみという場合もあれば、いや本当に大変だなあと誰しもが思う場合もあります。しかし、どちらにしてもアルバ−トの世界から見れば取るに足らないものばかりです。それが本当に分かったら、何をいったい悩み苦しんでいたのかときっと思えるはずです。ちっぽけなことにとらわれているから真実が見えない、真実が見えないからとらわれてしまう、どちらがどうなのか分かりませんが、とにかく小さな小さな中で、ああだこうだとやっているに過ぎません。やはり見ている目線を変えるしかありません。それにはアルバ−トしかないということでしょう。
 また反対に幸せの絶頂も肉であれば、それは必ず崩れていくことを、私達は長い歴史の中で記憶しています。だからこそ喜びも苦しみもその中に埋没してしまわないで、また溺れずに流されずに、その外側から見つめられる自分でありたいと、今世私は私に願ってきたと思います。
 こうでなければならない、こうあるべきだ、そのとらわれをひとつひとつ離していく中で、自分で到達した喜び、幸せの道筋です。そしてそれを揺るがすものは自分以外には存在しない、すなわち自分と自分の世界があるだけだということを感じています。まさに自作自演の中で喜んだり苦しんだりしてきたのだと思います。


 締め切り間際に駆け込みで波動の勉強を申し込まれた方は、本当にご自分の心を見られましたでしょうか。勉強熱心なんてとても思えません。欲、欲、欲ばかりです。その欲の渦の中に埋もれているご自分に気付くということが本来の勉強ではないのでしょうか。

 締め切り間際に駆け込みで波動の勉強を申し込まれた方は、本当にご自分の心を見られましたでしょうか。勉強熱心なんてとても思えません。欲、欲、欲ばかりです。その欲の渦の中に埋もれているご自分に気付くということが本来の勉強ではないのでしょうか。そのところを野放しにして、いくらあの場に座ったとしてもということになるでしょう。実際もっともっと自分で勉強をして座られたらと思う方は何人かおられました。
 田池留吉の目をいくら見ても、自分の心を見ずに素直でない方、そびえ立っている方は、決して間違いに気付けません。その瞬間は何かを感じるかもしれません。しかしそれで終わりです。自分の間違いに心から気付けなくてそびえ立っている方は、もう次の瞬間には元に戻っています。それが実際のところだと思います。
 もともとみんなが足並み揃えて歩んでいくことは不可能ですから、感じる程度のその差は当然出てきます。それで大きく前進することは難しいでしょう。その人なりにあるいはその現象によりみんなが何かを学べたら、それでいいのです。しかし、出られる方もその他の方も、本当に貴重な時間と空間であることの自覚をもっと持ってほしいと思っています。
 要は素直になって自分でやっていくことです。そうすれば、そこで語られること、心に響いてくるもの、何一つとして無駄なものはなく、狂いもないということが後々になって心に効いてくるだろう、そういうものだと思っています。


 アルバートが分かれば、どう生きていけばいいのか、どう死んでいけばいいのか、今まで疑問であったことに自らが答えをくれます。本当にすごいと思います。

 アルバ−トが分かれば、どう生きていけばいいのか、どう死んでいけばいいのか、今まで疑問であったことに自らが答えをくれます。本当にすごいと思います。
 狂う要素はみんな持っています。みんな真っ黒を抱えているからです。決して他人事ではありません。後は条件が整えば、そうなっていく危険性はみんなにあります。
 それはその通りであり、私も例外ではありませんが、しかしここからが肝心なことです。自分の中にしっかりとした心棒があれば、狂ってきた自分自身にはもう決して振り回されないということです。その心棒を丹念に育んでこられたかどうか、それが今もうすでにそうですが、これからその結果が顕著に出てくるのではないでしょうか。
 今世の私には狂うとかそれに類した経験がありませんから、実際そういう体験をされた方の大変さは分かりません。しかし、そういうことも全部自分で選んできた結果であることに早く気付かれて、僅かなりともアルバ−トのほうへ心を向けて、狂ってきた自分自身を優しく愛しく受け入れていってほしいと思います。
 安易な思い、考えでずっと学びに繋がってきた方々は、これから本当に大変です。上辺だけの喜び、幸せはすぐに消え去っていきます。封筒に貼られた切手の話、初恋の話は、なるほどそうだと頷かされます。しかし、それをするのもできるのもみんな自分自身であり、自分自身しかないということでしょう。


 アルバートと思うその思いは喜びだけです。苦しいからアルバート助けて、何とかして、そんな思いはひとかけらもありません。アルバートと呼べることが嬉しいだけです。アルバートに何も求めません。

 私は自分自身を大切に思っています。心から愛しいです。このような思いを自分に広げていけることが最高に幸せです。250年後が心で見えているのとそうでないのとでは、完全にその存在の仕方が違っています。
 アルバ−トと思うその思いは喜びだけです。苦しいからアルバ−ト助けて、何とかして、そんな思いはひとかけらもありません。アルバ−トと呼べることが嬉しいだけです。アルバ−トに何も求めません。ともに存在していることが幸せであり喜びだからです。それを心で感じているからです。
 アルバ−トを信じられない意識達がこれからどのような世界を展開していくか、そして本当にアルバ−トとひとつを感じている意識達がまたどのような世界を繰り広げていくか、意識の世界の正確さがはっきりと形になって現れてきます。
 何を語っても何をしても、アルバ−トがあるかないか、それだけです。アルバ−トがなければ所詮はすべてがブラック、どんな立派なことも正しいことも優しさもすべてがブラックです。アルバ−トがない者同士が互いに励まし合い、いたわり合い、慰め合っているに過ぎません。肉の中であればそれはそれでいいのでしょう。しかし、真実を知ればそうはいきません。そんなものを引きずったままでは、絶対に幸せも喜びも分からないことが分かってきます。
 その転回がいつできるのか、必ずできることを信じて待たれている自分であることにいつ気付けるのか、そびえ立つ自分を崩していくチャンスが自分を待っています。


 私はアルバートと出会うために、そのために今世転生を望んできました。田池留吉との肉との出会いがそのことを確実に心に伝えてくれました。250年後にその集大成を迎えます。

 喜びは尽きることなく、どこまでも続きます、広がっていきます。肉の喜び、幸せを包み込んですべてを包み込んで、この宇宙に大きく広がっていく意識の世界、波動の世界を心に感じている、アルバ−トを思えばその喜びと幸せが心に溢れ出してきます。この宇宙には喜びで幸せな自分自身しか存在していませんでした。その事実をこうして今現実に肉を持って自分に伝えていることが、たまらなく嬉しいです。私はアルバ−トと出会うために、そのために今世転生を望んできました。田池留吉との肉との出会いがそのことを確実に心に伝えてくれました。250年後にその集大成を迎えます。
 それは本当だろうか、本当にそうなんだろうか、もしその疑問、疑惑を感じるならば、自分の心を見てそして中の目を開けてアルバ−トの目を見てください。
 その目があなたにどのように答えてくれるのか、その目を見たときにどのような思いが感じられるのか、どんな場合もみんな自分とアルバ−ト、すなわち自分と自分の中でやっていくだけです。ということは、アルバ−トがお分かりでない、アルバ−トが信じられなくてはどうなるのか、もう言わずと知れたことだと思います。


 影を見て泣いたり憂えたり悩んだり苦しんだり、そういうことで心を落としていくのではなく、そこから感じられるタイケトメキチ、アルバートの意識、波動、その存在に触れることがただただありがとう、その優しさと温もり、温かさに幸せですの思いが自然にそれらを包み込んでいきます。

 日々の中で動く心、揺れる心を見れることがそれが喜びであり嬉しい、ありがとうと自然に思えます。影を見て泣いたり憂えたり悩んだり苦しんだり、そういうことで心を落としていくのではなく、そこから感じられるタイケトメキチ、アルバ−トの意識、波動、その存在に触れることがただただありがとう、その優しさと温もり、温かさに幸せですの思いが自然にそれらを包み込んでいきます。
 受け入れて包み込んでという力みはない、それが自然の流れの中で喜びへと変わっていく、そういうことだと思います。力み、頑張りはみんな肉、だから長続きはしない、己が偉い、それだけです。
 肉の喜び幸せとは肉を持てることだと、日々感じています。何が幸せ、何が喜び、今肉を持って自分の優しさに触れていることです。その自分の優しさとか温もりとかを横に置いて、それ以外にパワ−を安らぎを癒しを救いを求めてきた愚かさを心で知ってくださいと私は伝えています。
 優しい、全部自分は知っている、そのご自分に気付いていけば、ただただ自分に懺悔しかありません。自分の存在そのものがその根底から崩れていく喜び、これに優る喜びと幸せはありません。


 介護老人保健施設に伺う機会がありました。そこがどんなに至れり尽くせりの所であっても、どんなに明るい雰囲気であっても、出会ったひとりのおばあちゃんから肉のみで生きる世界の空しさややるせなさを感じて帰ってきました。

 介護老人保健施設に伺う機会がありました。近代的な設備の中で明るい雰囲気の中で若い介護士の方々が、働いておられました。高齢少子社会の中で今注目されているビジネスの分野でもあり、それだけに今後さらに様々な問題が起こってくる介護の世界です。ほんの僅かな時間ですが、その現場に肉を運ぶ機会を得ました。
 なるほど、施設はまだ新しくもちろん設備も充分整っていました。物的にも人的にも行き届いているようで、要介護のお年寄りを抱える家族には、ありがたいと思います。介護の専門家に一時的でも任せられる安心感を、家族の方であればたぶん感じられるという雰囲気がその施設には確かにありました。しかし、館内を回っているときに、ひとりのおばあちゃんが、「はよ、家に帰りたい、家に帰りたい」と看護士に訴えていました。たぶんそのおばあちゃんはいつもそう口癖のように言っているのだと思いますが、私はそのときそのおばあちゃんの一言が心に突き刺さったような感じがしました。
 そうなんだと思いました。どんなにそこは至れり尽くせりの所であっても、どんなに明るい雰囲気であっても、おばあちゃんはそんなもの求めていないと思いました。
 歌を歌ったり話し相手になってくれたり、色々なお世話をしてくれても、される側もする側もみんな真っ暗、行き届いた介護を受けられても、幸せ喜びとは程遠い世界だと思わざるを得ない現実を見せてもらいました。決して介護の現場だけではありませんが、肉のみで生きる世界の空しさややるせなさが、華やかに脚光を浴びれば浴びるほど、浮き彫りにされてくるような感じを受けて帰ってまいりました。


 もうすでに250年後に向けて急発進している今現在です。そのことを心で感じておられるでしょうか。それとも、未だに今だけの肉のことで心がとらわれている状態でしょうか。

 もうすでに250年後に向けて急発進している今現在です。そのことを心で感じておられるでしょうか。それとも、未だに今だけの肉のことで心がとらわれている状態でしょうか。肉のとらわれから心を離せずでは、私達とともに歩むことはできません。絶対できません。
 ご自分からみんな遮断していることに気付くことです。自分の心の扉は自分で開いていくのです。その扉を開け放てば、広がっていくのは本当に自由などこまでもどこまでも続いていく喜びの世界です。
 その扉を開ける鍵は、本当の優しさと温もりに触れることにあります。それをあなた自身が拒否しているだけです。己が培ってきたブラックの世界がその前に立ち塞がっているのです。その壁をあなた自身の優しさと温もりで溶かしていきなさいと私達は伝えにやってきました。しかし、他力のエネルギ−にがんじがらめの意識達にはそのことは大変困難なようです。それはあなた自身が身を以て体験されてきたことだろうと思います。
 それでも私達は田池留吉の肉を通してそして核の肉を通して真実を伝えています。私達とともに250年後に向けて喜びの道を歩いてまいりましょうと私達は心から伝えています。ともに歩めることをただただ心待ちしています。


 瞼を閉じて中の目を開いてアルバートの目を見る、これだけです。これでもう分かるはずです。優しさと温もりの中に包まれていることを感じられませんか。それ以上に何がお望みなのでしょうか。

 瞼を閉じて中の目を開いてアルバ−トの目を見る、これだけです。これでもう分かるはずです。優しさと温もりの中に包まれていることを感じられませんか。それ以上に何がお望みなのでしょうか。そうやって自分に問いかけていけば、いくらでも愚かな欲深い自分が見えてくるのではないでしょうか。
 学びに集いまだ日が浅い方ならいざ知らず、何年も学んでいる方ならば、もう瞼を閉じて中の目を開いてアルバ−トの目を見れば、何かを感じるようになっています。感じているものは何かということは別として、何も感じられないのは、真剣に学んでこなかったということでしょう。おそらく真剣に学ぶとはどういうことなのか、それすらも分からないと思います。
 何度も言いますが、頭での理解はセミナ−が終われば日々遠のいていきます。セミナ−がある間はいかにも学んでいる、アルバ−トの道を歩いていると思いがちですが、果たしてそれはどうでしょうか。だから心で感じる、心で分かるということをしていってくださいとお伝えしています。
 瞼を閉じて中の目を開いてアルバ−トの目を見るなんて、到底頭では理解できません。その理解できないことを、実際肉でしてみて自分で実験する、すなわち自分の心で感じていく、これを素直に受けていける自分であることが必要条件だと私は思います。


 どういう形をなしていくかまだ分かりませんが、私は自分が感じ信じているものを真っ直ぐに伝えていきます。そこはお金はもちろんのこと、己を表していくという次元とは全く無縁です。ただ250年後を見つめ、アルバートを語れることが喜び、そしてその喜びをともにできることがまた喜び、きっとそういうような計らいが用意されているだろうと思います。

 肉は、他力のエネルギ−に突き動かされて存在してきました。それがこれまでの転生でした。すなわちブラックのエネルギ−の中で肉は動いてきました。今世、肉を持ってきた私は、ようやくそのことに気付かせてもらいました。肉をブラックとして扱ってきたのは私自身でした。肉は喜びを伝えるための器であり、苦しみを生み出す道具ではありませんでした。そして、肉は私物ではないというような思いも出てきます。
 肉を通し、アルバ−トと出会い、アルバ−トの実在を確信するに至った意識として、これからこの肉をどのように使っていくか、まだ今のところはっきり形をなしているわけではありませんが、このことはおそらく250年後における予行演習というような展開になっていくだろうと思っています。
 どういう形をなしていくかまだ分かりませんが、私は自分が感じ信じているものを真っ直ぐに伝えていきます。そこはお金はもちろんのこと、己を表していくという次元とは全く無縁です。ただ250年後を見つめ、アルバ−トを語れることが喜び、そしてその喜びをともにできることがまた喜び、きっとそういうふうな計らいが用意されているだろうと思います。そのような流れの中で、私達はまた250年後に出会えることを約束して、肉は別れていくのだと思います。


 大いなる意識の流れの中で肉を持ったという喜びを、これからも広げてまいります。私は言うべきことは言うべきときにきちんと語ります。黒は黒、間違いは間違いだとはっきりと伝えます。それがアルバートに対する信、すなわち私自身に対する信、私はそう思っています。

 大いなる意識の流れの中で肉を持ったという喜びを、これからも広げてまいります。そうです、本当に肉とは喜びを伝える器でした。喜びに呼応する意識達に肉を通して喜びが流れていく、まさにそれこそが肉を持ってきた醍醐味です。
 アルバ−トが流れている、アルバ−トの中に包まれている、いつでもどこでもそのことを感じながら日々を過ごす、これほど幸せな肉はありません。アルバ−トとともに、これ以外に幸せ、喜びの道はないことを真っ直ぐに伝えていける喜びを感じています。伝えられる私は幸せで、どんどんこの心から喜びのエネルギ−が噴き出していくことでしょう。それはアルバ−トへの磐石の信、それがなせる業なのです。
 願わくば、お伝えする真っ直ぐを真っ直ぐに受け止めてくださればと思いますが、その思いもアルバ−トの前には雲散霧消です。私自身は何ら変わることなく、この道を真っ直ぐに見つめ歩んでいくだけです。そして私は言うべきことは言うべきときにきちんと語ります。黒は黒、間違いは間違いだとはっきりと伝えます。それがアルバ−トに対する信、すなわち私自身に対する信、私はそう思っています。


 私達がともに生きる道は、ただひとつアルバートを感じ知っていくことであり、それがこれからの想像もできないほどの天変地異を経て250年後に続いていく人類のシナリオです。一人ひとりの人生ドラマは、その壮大なシナリオの中の一部分に過ぎません。

 肉の人間、肉を本物とする思いがなしていくことには限界があります。その無力、無能、愚かさを心で知っていくスケジュ−ルが、これから250年後に続いていく時間に用意されていることを伝えています。
 今現在の人類には、自然の叡智など分かるはずがありません。どんなに尽力しても、地球を守ることなど不可能です。肉を本物とする思いこそが、真っ黒なヘドロとなって地球を宇宙を汚し続けていることに気付けていないからです。
 自然と地球とそして宇宙と共生する道を模索する試みが、これからも続けられるでしょう。全く愚かです。あまりにも思い上がった人類です。その人類が自らの目を覚ましていくものは、もう宇宙的規模の天変地異しかありません。
 私達がともに生きる道は、ただひとつアルバ−トを感じ知っていくことであり、それがこれからの想像もできないほどの天変地異を経て250年後に続いていく人類のシナリオです。一人ひとりの人生ドラマは、その壮大なシナリオの中の一部分に過ぎません。
 宇宙へアルバ−トを流す意識の目覚め、3次元最終を間近に控え、ただただ喜びです。大いなる意識の流れを今、心で感じ私はただただ嬉しいです。アルバ−ト、それは喜びです。


 「250年後に出会いましょう」とは、本当にアルバートのもとに喜び集える出会いを持ちましょうということです。アルバートのもとに喜び集えるとは、意識の転回そして次元移行を果たしていきましょうということです。

 「250年後に出会いましょう」、実現できるようにただひたすら心を見ていってください。
 心を見なければ、自らの間違いに絶対気付けない、認められないです。気付けなくて認められなければ、たとえ今世、肉の田池留吉との出会いがあろうとも、250年後、肉のアルバ−トとの出会いがあろうとも、本当の出会いは実現しません。
 「250年後に出会いましょう」とは、本当にアルバ−トのもとに喜び集える出会いを持ちましょうということです。アルバ−トのもとに喜び集えるとは、意識の転回そして次元移行を果たしていきましょうということです。
 肉と肉が出会っても、意識の世界が通じ合わなければ私達とともに歩んでいくことは不可能なことです。そのことを今世そして250年後へと続く道のりの中で、自分自身心で知って、250年後の出会いをひたすら待つ、その時間と空間を自らに与えていくというシナリオをそれぞれが書かれていると思います。
 今世、セミナ−に集えた方々もそうでない方々も、自分自身のシナリオは喜びで終了してほしい、すなわち次元移行を成し遂げてまいりましょう、これが私達の思いです。


 心の自由、これはお金では買えません。どんなに身分が保障されていても、どんなに物的人的に恵まれた環境の中にいても、心に自由がないことほど苦しみはありません。

 心の自由、これはお金では買えません。どんなに身分が保障されていても、どんなに物的人的に恵まれた環境の中にいても、心に自由がないことほど苦しみはありません。同じように真っ黒真っ暗の中にあっても、まだ苦しいとか悲しいとか言える人はいいかもしれません。表面上は取り繕って、体裁を整えなければならない立場にある方々はそれすらもできません。だからこそなおいっそうその苦しみ、辛さの重みが迫ってきます。
 ぼつぼつとその状態は形となって浮き出てきていますが、まだまだ水面下です。しかし、いつまでもそういう状態のままではありません。あるときを境にしてそのエネルギ−は一気に噴き上がってくるでしょう。私達は一日も早くそのときが来るのを心待ちしています。それは形を見れば大変な状態ですが、もう自由にしてあげたい、ともに本来の姿に帰りましょうとお伝えしたいです。
 アマテラスの国、日本がその形を崩していくとき、それは喜びです。アマテラスに代表される諸々が崩れていく、本当の自由を求めて崩れていく、これもまた大いなる意識の流れの中の一端です。そういう現象を通してそれぞれが何かを感じ、何かを考えていくはずです。そしてやがて頭でなく心にどんどん迫ってくるもの、その存在を感じ始めます。そうすると分かってくる、今まで自分を縛っていたものは何であったのか、私は自由、無限に広がっていくものだったと心で分かっていくと思います。


 宇宙的規模の天変地異は、愚かな人類が自分達に与えたラストチャンスです。自らに与えた大きな愛です。自分達は愛であったことに蘇ってくる、そんな素晴らしいシナリオが用意されている、本当にすごいことだと感じています。

 マスメディアを通して報道される出来事のひとつひとつをバラバラにあるいは部分的にとらえるのではなく、そこに意識の流れというものを感じながら、そういうものを見たり聞いたりしていけば、なるほどやはりそういう方向に動いてきているなあと、合点がいくと思います。
 意識の流れ、アルバ−トが厳然としてあることが様々な現象を通して、明らかにされていくこれからです。それぞれが内外に起こる天変地異を通して気付いていくときです。一度でだめならその次また次と、それは次元移行という流れの中で必然的なものなのです。
 肉から意識への転回、もともと形の世界なんてなかった、だから形あるものはみんな崩れていくことを目の前に示されます。とことん崩れて崩れて、すがることも祈ることも求めることも何もできなくなる、しなくなっていくほどの事が起こってきます。そうなって初めて何かに気付いていけるのです。
 自分達の無力さと愚かさにようやく気付いていける、そうそれはとことんまで行きます。宇宙的規模の天変地異は、愚かな人類が自分達に与えたラストチャンスです。自らに与えた大きな愛です。自分達は愛であったことに蘇ってくる、そんな素晴らしいシナリオが用意されている、本当にすごいことだと感じています。


 アルバートを思えば思うほど、そして意識の流れを思えば思うほど、心から出てくる思いはありがとう、嬉しい、幸せです、の思いだけです。そしてその思いを感じれば、やはり天変地異が出てきます。喜びの雄叫びが天変地異という形になって示されていくと心に伝わってきます。

 アルバ−トを思えば思うほど、そして意識の流れを思えば思うほど、心から出てくる思いはありがとう、嬉しい、幸せです、の思いだけです。そしてその思いを感じれば、やはり天変地異が出てきます。喜びの雄叫びが天変地異という形になって示されていくと心に伝わってきます。
 形ある世界が実在の世界だとする思いは、これからも人類の幸福と繁栄を願って膨らみ続けます。人類が築いてきた歴史、文化、遺産等々を次世代へ引き継いでいこう、そして未来に向けてさらなる進歩発展をという野望は尽きることはないでしょう。しかし、その夢はあっけなく打ち砕かれていく、本当に一瞬のうちに消え去っていきます。これは何だろうかと考えざるを得ない状況になっていくのです。
 生きても地獄、死んでも地獄、難を免れてよかった、そんなどころではないでしょう。救援物資、人道的救済、心のケアどころではない、その中で人類はいったい何を思うのでしょうか。そこまでその極限まで人類は体験しなければ、真実に目覚めるということは難しいです。
 これからを思えば天変地異が出てくる、天変地異を思えばこういうふうなことが感じられます。だからこそ今の今、心を見ることを真剣に本気になってしてくださいというのが、どんな優しさであり温もりであるのかということになってきます。



         ★ あなたにとって人生とは何でしょうか。

         あなたは、なぜ生まれてきたのですか。
         あなたは、どうして今そこにいるのですか。
         あなたは、本当の自分自身に会いたくありませんか。
         あなたは、このまま死んでいくつもりですか。


こころの歌        一月一日
           39   ふじの山   作詞 巖谷小波  作曲 未詳
           40   真白き富士の根   作詞 三角錫子  作曲 インガルス
           41   お江戸日本橋   日本古謡
           42   冬の星座   作詞 堀内敬三  作曲 ヘイス
           43   兎のダンス   作詞 野口雨情  作曲 中山晋平
           44   早春賦   作詞 吉丸一昌  作曲 中田 章
           45   どじょっこふなっこ   わらべうた  作曲 岡本敏明
           46   どこかで春が   作詞 百田宗治  作曲 草川 信
           47   ウグイス   作詞 林 柳波  作曲 井上武士
           48   汽車ポッポ   作詞 宮原 薫  作曲 草川 信
           49   汽 車   作詞者未詳  作曲 大和田愛羅
           50   ちんから峠   作詞 細川雄太郎  作曲 海沼 實
           51   港が見える丘   作詞・作曲 東 辰三
           52   青い眼の人形   作詞 野口雨情  作曲 本居長世
           53   ともだち讃歌   作詞 阪田寛夫  アメリカ民謡
           54   笛吹童子   作詞 北村寿夫  作曲 福田蘭童
           55   四季の歌   作詞・作曲 荒木とよひさ
           56   春が来た   作詞 高野辰之  作曲 岡野貞一
           57   桃太郎   作詞 未詳  作曲 岡野貞
           58   故郷の空   作詞 大和田建樹  スコットランド民謡
           59   故郷を離るるの歌   作詞 吉丸一昌  ドイツ民謡
           60   翼をください   作詞 山上路夫  作曲 村井邦彦
           61   グッド・バイ   作詞 さとうよしみ  作曲 河村光陽
           62   別れの歌(さようなら)   作詞 サトウハチロー  作曲 中田喜直
           63   花   作詞 武島羽衣  作曲 瀧廉太郎
           64   春の唄   作詞 貴志邦三  作曲 内田 元

           私の青春  寮歌


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私は田池留吉(1926年生)です。

肉から意識へ基盤を転回してください。
「意識の流れ」を読み込んでください。ホームページを開いてください。
アルバートに心を向けてください。アルバートがすべてです。波動が真実です。
私はあなた、あなたは私、ひとつです。
私とともにアルバートの道を進んでいってください。



 明けましておめでとうございます。

                  2005年元旦  田池留吉


 「意識の流れ」はスゴイ本です

 セミナー翌日にカナダ、トロントへの帰路につきました。その飛行機の中で次のような出来事がありました。
 食事の後、「意識の流れ」を読んでいました。そしてそれをちょうど読み終えた頃に突然日本人の客室乗務員(スチュワーデス)がわたしのところに来られ「その本は如何でしたか?わたしもちょうどそれを読んでみたいなぁ、と思っていたところなんです」と本を指して言われました。思いがけないところで思いがけない方からの質問に驚いて「とても言葉では表現出来ないほどのスゴイ本ですよ」とだけ答えましたら彼女は顔をパッと輝かせて「そうなんですか、直ぐに買って読んでみます」と嬉しそう言われました。
 本当のことを捜し求めている人たちはこうして確実に出会うようになっている、と確信した出来事でした。嬉しかったです。


 心を見るのがいかに浅かったか、分かりました。全然心を見ていませんでした。これから原点に戻って0からやり直します。
 「意識の流れ」は凄い本です。まだ十数回読んだだけですが、心を見ることのいかに大切か、いかに難しいか、いかに凄いことかが心に響いてきました。


 年が明けて家の近くの公共図書館へ行きました。新刊書の書架を眺めていると、あっ「意識の流れ」白い本がありました。すぐに手に取りました。表紙を開いてみると内側の方にオレンジの帯が丁寧に貼られてありました。うわっ、嬉しい、嬉しいな。ありがとう。


 今日は朝からなんとなく嬉しくふるさとの歌を口ずさみながらホームページを開けました。その中の「意識の流れ」の本はすごい本です。の文字を見たとたん嬉しさが増してきました。そして、核からのメッセージに目を通そうと思った瞬間「お母さん。お母さん。」と思いがこみ上げてきて涙が止まりませんでした。
 ふと、そばに置いてあった「意識の流れ」の本の表紙を見たとたん「おかあさーん。」と内から無数の私が声を上げていました。
 ありがとうございます。こんなに待っていた本に出会えた私は幸せです。本当に幸せ者だなと思ったとき心の中が暖かくなり声を上げて泣きました。嬉しかったです。ありがとうございます。


 昨年10月30日に結婚したばかりの孫の嫁25歳が、私たち夫婦が読んでいる意識の流れの本を欲しがり、説明も聞かずただただ喜んで持ち帰りました。
 必ずや読んで何かを感じくれるかと思えば本当に嬉しいです。UTAのことは何にも話していないのに私達、じじ、ばば、の様子を感じ取っているようでこれからが楽しみです。


 意識の流れを読み進めていく中で、自分の中からいろいろな意識達が顔を出します。素直に喜んでいる意識もあれば、本を開けたとたん、怒涛のごとく凄まじい勢いで噴出してくるエネルギーもあります。苦しみのた打ち回る意識達、長い間放っておいてごめん、ともに学んでいこう、アルバートへ帰っていこう、そう語れることが幸せです。本当に冷たかった自分を感じます。受け入れ抱きかかえ包み込む本当の優しさは、アルバートを心から信じる、ハイの世界でしか生まれないということを、本を通して学んでいます。ありがとうございます。


 「意識の流れ」を最初はそんなにさっさとは読めませんでした。読んでもよくわかりませんでした。聞きなれた言葉と、頭で理解してきたことが、あぁ、そうかと思う、そんな感じでした。読み進めていくうちに、何度も繰り返して読んでいくうちに本当に私は肉だった、そこから少しも脱してはいなかった。私の本質は意識であり永遠の未来へつづくということを、心で少しも受け止めていなかった自分であったと思いました。だから核のメッセージも心で受けとめてこれなかった自分を知りました。読んでいくうちに私の中でタイケトメキチが核が変わってきました。とても小さく捉えてきたこと、そしてどれほど反逆の限りを尽くしてきたかということが心に響いてきました。正しいことなんてひとつもない、間違っていないものなどひとつもない、どれほど自分を過信し曲解し現実の自分から逃避していたか、ようやく目が覚めた感じがします。タイケトメキチや核の愛、温もりがドンドン心に響いてきます。待って待って待ち続けていてくれる自分自身がいることが心に響いてきます。いったい何をしてきたのだろう、意識の転回をどれほど真剣に為していこうとしてきたか、あまりにも愚かでした。この本は本当にすべての意識達に働きかけている、肉から意識へと、真実の世界へと。意識から意識へと伝わってくる愛のエネルギーそのものです。本当に襟を正して一からやり直しです。


 ホームページの「意識の流れ」の写真をクリックし、「意識の流れ」の大きな写真を見つめていました。この本から流れるてくるものに心が反応します。澄み切った清水の如く静かな爽やかな思いに吸い寄せられるようです。
 さらに肉の思いが薄れてくると、限りない優しさ、大きな温もりに包まれていき、やがて無限の広さが伝わってきます。そして、この本がどれほどの奇跡の中で、今、私の目の前に現れているかと言うことに思いがいくと、嬉しくてなりません。
 この本に触れた私の心の中の苦しみが喜びます。真っ黒の意識がこの本の温もりに包まれ、限りなく広い世界へと解放されていきます。その喜びは計り知れません。やっとめぐりあえた喜びに心は感動します。地獄の底から願って願って願い続けたことが今、形となっています。空をあおぎ、淋しさに慟哭した意識が真実に触れ、その喜びは筆舌に尽くせません。私の心の中が、ただ「ありがとう!ありがとう!」と叫んでいます。心の底から喜びがわき上がってきます。


 「意識の流れ」、核からのメッセージを読んで。

 大馬鹿者のくそったれは私でした。

 くそったれ、お前なんか知るか、今世も裏切ってやる、アルバートになぞ絶対帰るものか、そうやって反抗し反逆し、好き勝手やり放題、凄まじいエネルギーを出し続けてきた私です。自分で出したエネルギーにふらふらになりながら、道を求めているのに、それさえも自分自身でどうしようもない、確かめようにも心棒がない、そして学びながら田池留吉を裏切り、いつまでたっても距離が埋まらない、自分ですべてを複雑にし、自分の作った世界でがんじがらめになっていた私です。そうですね、その根底に肉で何とかなる、肉は素晴らしい、結局は肉の基盤の上での学び、他力の世界を広げていたにすぎません。「意識の流れ」を読めば読むほど、核のメッセージを読めば読むほど、いったい私は何をしてきたのだろうと、叫びだしたくなります。大馬鹿者のくそったれは私でした。本当にどうしようもないくそったれです。意識の転回どころか、学び方の転回すらできていない自分を知りました。どこが賢い、どこが正しい、どこが間違っていない、いったい何を誇ってきたのか、何かが音をたてて崩れていく感じです。
 すべてがにせものでした。すべてが肉基盤でした。すべてを欺き自分をも欺き、ないがしろにしてきました。私は何も学んではいませんでした。白か黒しかない世界なのに欺き通せる、そんな中途半端な自分でした。学びに対してもすべてに対してもいいかげんでした。自分自身をどれほど粗末にしてきたか、冷たかったか、本当の所何もわかってはいなかったのです。



 最初読んだときは、セミナーと同じ内容だと軽く見ていました。2回3回と読みこなすうちにやさしいとか、心が落ち着くとか思えることもありました。
 ところが、7、8回読んでいると心が苦しくなるのです。頭では自分が間違っているとわかっても、心には落ちてきません。そのうち、母を思うとさんざんのろってころしてきた思いがでてきます。
 私は、今世の母にもこのような思いを出してきたのかと、愕然としました。
 これは私の中の意識たちが流れに乗ろうと、必死になっているのだと思いました。
 セミナーでの先生の指差しと同じ体験をするなんて、すごい本だと思います。



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