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    UTA会セミナーは終了しました。素晴らしいセミナー、ありがとう。喜びでした。幸せでした。



セミナーの中心課題

 意識の転回 「私達人間は、肉ではなく、意識であり、永遠に存在するものである。」

 意識は心、思い、波動、エネルギーである。 意識は現象化する。
 意識は一つ、私はあなたあなたは私である。


実践項目

 1 自分の心を見る。

 2 お母さんの温もりを知る。

 3 自己供養をする。

 4 アルバートを感じ、信じる。

   日々反省と瞑想を重ねる。


点検項目

 1 他力の神々の実像、教祖・宗教的指導者等の実態

 2 人間の本質、自分の実像

 3 人生の目的、生まれてきた意義

 4 死後の世界、転生の実態

 5 アルバートの波動、田池留吉の宇宙

 6 250年後の感動的なアルバートとの出会い

 7 意識の流れ、UTAの世界

 8 四次元への移行


メッセージを読む


メッセージを聞く


 素直で優しく真面目でアルバートへの信を培う道をひたすらに進む友だちになってください。待っています。

 意識の流れを感じ、田池留吉、アルバートと共に歩いていく真実の道しかありません。決意し、勇気を出してこの道をただただ真っ直ぐに歩いていってください。私は一人でも多くの友との大いなる出会いを待ち望んでいます。

 自分は肉だと思い、肉が基準の人生を送る人々、未だに己一番、頑固の一生を通す方々は、無知とエゴと欲の濁流に流され、浮き沈み、ついには淵に沈んでいくことになるでしょう。地獄から出てきて地獄に戻っていく転生を繰り返すことになるのです。

 これからは本物と偽物がはっきりとしてくるでしょう。本当にアルバートを信じているものとそうでないものがはっきりとしてきます。本当の喜び幸せかそうでない喜び幸せか明らかになってきます。

 いよいよセミナーも終わりに近づいてきました。心をしっかり見ていってください。
  「私こそ神だ。私は選ばれしものだ。私は使命あるもの、特別な存在である。」などと思っている人々。他力の神々をしっかりといまだに持っている人々。私は間違っていない、私は正しい、私は素晴らしいとそびえ立っている人々。‥‥無知とエゴと欲そのままの人々。もうそろそろ間違ってきました、喜びですとなってください。待っていますよ。


 あなたは今、意識の流れを感じていますか。すべての意識はその流れの中にあります。あなたは意識の流れを知らないまま死んでしまってもいいのでしようか。私はあなたが真実の世界を知って本当の自分に出会い本当の人生を生きていっていただきたいと願っています。

 あなたにとって一番大切なものは何ですか。あなたは今何を一番大切にしていますか。生命ですか、財産ですか、家族ですか、仕事ですか、それとも国家ですか、地球人類ですか。あなたにとって大切なものは一つしかありません。それはアルバートです。あなたがアルバートとともにあることがすべてです。

 私がお伝えしたいこと、あなたが知りたいことは「意識の流れ」と核からのメッセージにすべて記されてあります。頭では分かっているのですがというのはまだまだということになります。心で分かってこそ初めて分かったということになるのです。

 アルバートを信じているかどうかだけです。いつも自分自身に問うてみてください。「はい」か「いいえ」のどちらかでいいのです。思いは現象化していきます。「喜び、幸せ、ありがとう」と。



核からのメッセージを開きましょう、読みましょう。
核からのメッセージを毎日開いて読むようにしましょう。
核からのメッセージは学びの指針となるでしょう。



核からのメッセージ


 感じています、信じています、感じていきたい、信じていきたい、そんな言葉を百万遍連ねても、心はそう語っていない、波動は厳しく冷たく重いです。やがてそれが形となって自分で自分に伝えていくことでしょう。それほど肉を本物とする思いの壁は部厚いです。

 幸せですかと聞かれて幸せですと即答できる、こんな幸せはありません。自分自身の優しさに触れ、心の底からありがとうの思いが沸き上がってきます。
 そういう世界を一日も早く、自分の中で確立していってください。肉を本物とする他力のエネルギ−の実態を自分の中で知って、そのエネルギ−とともに本来の自分に帰っていく道筋を選択されたから、今世のあなたがそこにあるだけです。肉のあなたはその程度のものです。
 それよりも本当の自分自身に触れるチャンスがあるのだから、その程度の肉の自分はもういいとなりませんか。肉のとらわれから自分自身を解き放してということは、そんなに難しいことなのでしょうか。私には分かりません。分かることはそういうことが難しいというのは、やはりアルバ−トを感じておられないからだということです。
 感じています、信じています、感じていきたい、信じていきたい、そんな言葉を百万遍連ねても、心はそう語っていない、波動は厳しく冷たく重いです。やがてそれが形となって自分で自分に伝えていくことでしょう。それほど肉を本物とする思いの壁は部厚いです。そういうことを私達は今世学ばせてもらったのではないでしょうか。


 たとえば、「ありがとう」その五文字あるいは五音で分かる、波動の世界とはそんな世界です。

 たとえば、「ありがとう」その五文字あるいは五音で分かる、波動の世界とはそんな世界です。見つめている方向、感じているもの、存在している場がぴったりひとつ、その喜びと幸せを感じるのに、そんなに長い言葉は要りません。たった一言で通じ合う世界、それがアルバ−トの世界です。アルバ−トを本当に感じ本当に信じているからこそ分かり合えるのだと思います。
 だからこそ、そうでない方とは隔たりを感じます。これは理屈ではありません。話すこと、することも大して変わらないし、その方も嬉しい、ありがとうと言っている、しかし、しかし、です。何か違う、何かしっくりこない、何かずれているのです。どう違うのか、どうずれているのか、それはうまい表現は見つからないけれど、ぴったりこない感覚だけは伝わってきます。
 手前味噌ですが、私はこれまで田池留吉という方から、まあ俗に言う褒められることが多々ありました。それは私との出会いを本当に喜んでくれているところから派生するものですが、もし私自身がそれを肉でとらえたなら、私はとっくの昔に落ちていたでしょう。しかし、私にはそんなことあり得なかった、自分自身が書いてきたシナリオにはそれはありませんでした。
 予定通りの流れの中を推移していくことを感じるにつけ、意識の流れはすごいと思います。そして私自身、ありがとうの波動を全身全霊に受けて、こんな幸せなことはないです。これが今世そして来世の自分のシナリオだと思うとき、私もやはりありがとうしかありません。


 セミナーを実生活のメインに掲げ、エネルギーを集中させてきた12年余りの年月、思い残すことはありません。そして、淡々と自分の歩むべき道をアルバートとともに進んでいくことに、これからも何ら変わることもありません。

 私は他力的に盲目的に、田池留吉にイエスマンではありません。私は自分が納得するというか、合点がいくまで、田池留吉に抵抗、歯向かってきました。そのエネルギ−はすごかったです。私自身の中で胸落ちしないうちは、自分が納得できるまでという思いを持ちながらのセミナ−参加でした。自分のこのエネルギ−はどこから来るのか、その思いが遠いセミナ−会場まで幾度となく肉を運ばせました。
 今、心で納得している私は、たとえば田池留吉が右を向きなさいと言っているから右を向いているのではなく、右を向くことを自分で納得して、そしてそれが嬉しいとなっているのです。一事が万事そうです。250年後にアルバ−トと出会って、こうなるああなるということも、全部自分で納得しているから私は幸せで嬉しいということになってきます。だから私の喜びは変わらない、揺るがない、自分で感じていることだからです。
 もちろんその方向を示してくれたのは田池留吉であり、その肉を通して真実の波動の世界を感じさせてもらいました。そしてそれはまたセミナ−参加者全員に公平平等なことでした。すべてにその門戸は開かれていたし、そのチャンスはみんなそれぞれにあったはずです。私はそういう転機を逃さなかっただけです。
 セミナ−を実生活のメインに掲げ、エネルギ−を集中させてきた12年余りの年月、思い残すことはありません。そして、淡々と自分の歩むべき道をアルバ−トとともに進んでいくことに、これからも何ら変わることもありません。


 意識の世界はすごいと思います。そしてそのすごさを感じるから、肉というものはその流れに沿っていけばいいだけなんだと思います。本当の私が私を導いている、それを実感しています。

 何をやっても空しさを感じていた私が、自らをセミナ−に集わせてから、自分の中のエネルギ−を存分に感じる場を得て、まるで水を得た魚のように生き生きとして、本来の伸び伸びとした自分に戻れる喜びと幸せを感じてきました。
 心の解放感をたくさん味わってきました。私は何も要らなかった、必要とするものは全部もう持っていたし、それ以上のものを望む思いはありませんでした。また、肉でさしあたっての悩みもなかったから、それだけに自分を解き放すことだけに集中できたのでしょう。
 そういう自分自身を振り返れば、文字通り私にとって、今世はただアルバ−トに出会うためだけにあった、そして来世への橋渡し的な肉の時間であることを感じます。
 もう皆さん、それぞれが感じつつあると思いますが、常識的なル−トを辿っては、意識の転回は困難です。私はそのことを前提に今世を組んできたのだと思います。意識の世界があって肉、形として現象化してくるということですから、私の中ではすでに今世の流れを見越していたということが、肉を通して今、感じていることです。だからすごいなあと思います。意識の世界はすごいと思います。そしてそのすごさを感じるから、肉というものはその流れに沿っていけばいいだけなんだと思います。本当の私が私を導いている、それを実感しています。


 お金なんか、地位名誉、頭脳なんか霞んで見えるでしょうと私は思います。しかし、なかなかお金も神もその他諸々も心から離すことができない、握って埋没していくその道をまっしぐらというのが、現実の姿です。果たして自分はどうなのかというところに、心を見るポイントがしぼられてくるのではないでしょうか。

 嬉しさ、楽しさの裏は不安と恐怖そして空しさ、どうしてか、今嬉しくて楽しいのにどうしてか、ようやくその回答に辿り着いた今現在を思うとき、自己選択と自己責任の優しさと厳しさを感じ、やはりありがとう、嬉しいと思うばかりです。自らをいざなっていることに本当にありがとうございますしかありません。
 たくさんのものを握っている方は苦しいと思います。いえ、たくさんでなくても何かひとつでも握っている方は苦しいはずです。何を握っているか、それは心を見れば自分で分かることです。みんな心を縛って生きています。自由奔放に存在しているように見えても、それは本当の自由でないから、心の底に寂しさだとか悲しさを抱えて、それこそまさに虚像の世界そのものを伝えているように思えます。
 心の底から本当に大らかに笑えるような、何の憂いもなく、私は自由だと心が伸び伸びできるような、そんな自分自身を堪能できるならば、こんな幸せなことはないと思いませんか。お金なんか、地位名誉、頭脳なんか霞んで見えるでしょうと私は思います。しかし、なかなかお金も神もその他諸々も心から離すことができない、握って埋没していくその道をまっしぐらというのが、現実の姿です。果たして自分はどうなのかというところに、心を見るポイントがしぼられてくるのではないでしょうか。


 アルバートがあるから、肉はさらりと別れることができる、そしてアルバートがあるから、肉との出会いも心の底から喜び合えている、そういうことだろうと思います。アルバートがなければ、そうはいきません。肉を信じる心、肉しか信じられない心、それは言ってみれば、呪いと恨みで満杯の世界です。

 粛々と250年後に向けて歩いていくことが喜びとなるような、そんな肉の時間をお過ごしください。何をしてはいけない、これをしなさいというものではないけれど、今自分ができることは心を見ることなんだ、それが自分自身にとって最大の優しさなんだと分かれば、自ずとその存在の仕方が決まってくるのではないかと思います。
 意識の流れの本にも書かせてもらいました。笑顔で再会を約束してお別れしていきたい、その通りです。出会いを本当にありがとうございました、そうして肉はさらりと別れることができれば、肉と肉はこんなに幸せなことはないのではないでしょうか。もちろん、意識の世界は言うまでもなく、アルバ−トです。アルバ−トがあるから、肉はさらりと別れることができる、そしてアルバ−トがあるから、肉との出会いも心の底から喜び合えている、そういうことだろうと思います。
 アルバ−トがなければ、そうはいきません。肉を信じる心、肉しか信じられない心、それは言ってみれば、呪いと恨みで満杯の世界です。大げさな表現のようですが、肉のみの世界とはそういうものだと心を見る過程の中できっと頷けると思います。


 みんな本当に平等で公平です。それぞれがそれぞれの転機を用意して、こうして肉を持たせてもらいました。そしてそれを活かせるかどうかは、またそれぞれです。

 みんな本当に平等で公平です。それぞれがそれぞれの転機を用意して、こうして肉を持たせてもらいました。そしてそれを活かせるかどうかは、またそれぞれです。みんな公平に平等に用意してきたということは間違いありません。もちろん、私にもありました。それは私にとっては全く予期しない事態であり、その驚きもさることながら、そのとき私は、自分自身の方向転換を促すものだと、そうはっきりと思ったから決断できたのでした。
 転機、それは決断のときです。ここぞというときに決断できる、そして決断したからにはそれを翻さない、自分で決めたことにグラグラしない、それくらいのものがなければ、実際アルバ−トへの道はなかなか難しいです。泣いて叫んで喚いて私の気持ち分かってくださいと訴える、そんな状態では自己確立の道など程遠いです。
 地獄の奥底から這い上がってきた私の思いは、その自分自身の現実を知っているから、自分をごまかせないです。剣が峰の思いで肉をもらってきたことを感じてきました。だから、私は知っています。核からのメッセ−ジは自分に対するメッセ−ジです。自分自身に対する厳しさと優しさが、この肉を通して、このように語らせているのです。
 厳しさの後ろに優しさが、優しさの後ろに厳しさが、そしてそれがひとつとなってアルバ−トへの道を突き進んでいく、私はそのように感じています。


 アルバートはすごい、意識、波動の世界はすごい、実体験から出てくる思いです。今は、アルバートとともにある私が私ですと、伝えてくれる私を心で感じています。ただただ嬉しいです。

 肉は平々凡々でも、私の意識の世界は違います。そしてその世界が私であるとの確認はもう済ませています。従って肉は心を揺らしながら、しかしその底は揺れていない、安心立命とでも言ったらいいのでしょうか。意識の流れを感じ信じている私にとって、本当は何も恐れるものはないんです。それはアルバ−トが現実だから、アルバ−トを感じアルバ−トを信じる自分自身と出会っているから、そう思えるのでしょう。
 しかし、肉は臆病だし肝っ玉があると思われないし、何もないです。適度な量の仕事をさせてもらって、後は犬と遊んでいるときが楽しくて、という日々を過ごす肉を見れば、どこにでもあるような風景だと思います。肉としてはそれで満足しています。いえ、肉でも満たされている私は、本当に最高に幸せです。
 以前は肉として満たされていても、満たされていると感じられなかったけれど、今は何もなくても幸せだと思える、この違いです。その違いを自分の心で体験してきました。アルバ−トはすごい、意識、波動の世界はすごい、実体験から出てくる思いです。今は、アルバ−トとともにある私が私ですと、伝えてくれる私を心で感じています。ただただ嬉しいです。


 心を見て自分の苦しみ、間違いに気付き、やがてそこから脱却していく、その苦しみ、間違いから自分を解き放していく、そのために私は生まれてきましたと心から思えたなら、人生は180度変わります。

 心を見て自分の苦しみ、間違いに気付き、やがてそこから脱却していく、その苦しみ、間違いから自分を解き放していく、そのために私は生まれてきましたと心から思えたなら、人生は180度変わります。流れる風景、見える風景は同じであっても、感じ方、受け取り方が違ってくるから、自分自身の関わり具合が、違ってきます。
 端的に言えば、肉に向けてきた重苦しいエネルギ−が、その質を変えていく、すなわち波動が段々に軽やかになっていくということでしょう。重苦しいエネルギ−を重苦しいままでは、自己供養もままなりません。それらはみんな肉の中での作業だからです。しかし、少しの気付きと素直さがあれば、その重苦しさが少し質を変えていきます。そうなればどれだけのすさまじいエネルギ−であっても、案外フワ、フワっと包み込んでいける、よく波乗りのたとえがありましたように、そういう感覚で自己供養がはかどっていくと思います。
 自己供養は楽しいものです。それは喜びと幸せを伝えてくれるし、アルバ−トへの思いを確認させてくれるものだからです。だから、心を見るということを肉に伝えてもらった私達は、本当に幸せだと思います。自分を自分で救っていくことができるなんて、これほどの愛はありません。そういう存在が自分自身であった、それは本当に素晴らしい出会いでした。


 今世肉との出会いがなくても、私達はもうすでに意識の世界で語り合っています。これからの250年の間に、そういう意識達が様々な事柄を経て私達との出会いを待っている、その流れを感じています。劇的な出会いと素晴らしい仲間達との出会い、私達にとって250年後はまさに待ち遠しいの一語に尽きます。

 これからもそうですが、今までもひとつひとつ、一歩一歩手順を踏んで遂行されてきました。意識の流れの中で着実な歩み、正確な歩みを続けて今に至っています。ようやく250年後へと繋いでいくことが現実のものとなった今、思いとしては一足飛びに行きたいです。私は、思えばもう嬉しくて、嬉しくてという状態です。
 しかし、全体から見れば、やはりこれから250年という時間が必要なんだということでしょう。それぞれがそれぞれの250年後を経ることにより、意識の転回へと歩み出せるチャンスを用意する、そういうことだと思います。
 そしてそのチャンスはみんなに平等に公平です。意識、波動の世界は限りがありません。従ってセミナ−も全宇宙に向けて開かれているのです。決して肉でとらえられるものではありません。それが分かってこられたら、本当に喜びしかありません。
 今世肉との出会いがなくても、私達はもうすでに意識の世界で語り合っています。これからの250年の間に、そういう意識達が様々な事柄を経て私達との出会いを待っている、その流れを感じています。劇的な出会いと素晴らしい仲間達との出会い、私達にとって250年後はまさに待ち遠しいの一語に尽きます。


 小さな世界にこだわって存在している愚かさが心に響いてくれば、その何もかもから心を離していける、そうしてようやく真実の波動の世界が心で感じられるようになる、その過程を歩むことが、本当に生きるということです。

 肉を基盤とした波動は重苦しい、そうでない波動は非常に軽やかである、ポイントはそれだけです。そんな簡単なことがもう分からなくなった、波動を心で感じる前に、形で判断するようになりました。
 自分の生きてきた道を振り返り、これから生きていく道を考える、そういう転機は誰でも経験すると思います。しかし、それも所詮肉基盤であれば、どんなしっかりとした立派な人生哲学であっても、重苦しい真っ黒な世界です。
 たとえば、人生を真面目に考え一生懸命生きようとする方と、チャランポランに行き当たりばったりに生きているかのように見受けられる方と、いったいどう違うのでしょうか。形は前者が立派に見えるでしょうし、世間もそれなりに評価するでしょう。しかし、そのどちらもが肉基盤に違いないから、波動の世界は真っ黒、真っ暗です。そういうことを踏まえつつ、そういう中に肉を持っていることを知りながら、周りと関わっていけば、肉の世界のことはみんな程々に流していけるはずです。
 小さな世界にこだわって存在している愚かさが心に響いてくれば、その何もかもから心を離していける、そうしてようやく真実の波動の世界が心で感じられるようになる、その過程を歩むことが、本当に生きるということです。


 肉を本物としてきたエネルギーが培ってきたものは、すべて培ってきた自分達で崩していくようになっています。それが自然に帰る流れです。

 3次元の世界に存在する意識達に真実を伝えにきてくれた、それが田池留吉であることは周知のことです。そしてそれに呼応するように目覚めがあったことは、核を通してまた伝えられている通りです。今世目覚めるべき意識が肉を持って、そしてその肉の現象と相まってその道筋を辿ってきたことは、ホ−ムペ−ジに足跡がはっきりと残されています。
 意識の流れに沿って今世はセミナ−が開かれてきたこと、そしてそのセミナ−はひたすらに目覚めを待ち、目覚めを促してきたものであったこと、それらがもうすでに明確になって、後は喜びで完全に終了していくだけとなりました。
 タイケトメキチには本当にありがとうしかありません。よくこの3次元へ来てくださいました、そして真実をよくぞ伝えてくださいました、必ずこのことを繋いでまいります、その思いが心から溢れ出てきます。ともに歩いてまいりましょう、何度その思いに触れさせていただきましたでしょうか、私はもうただただ感無量です。
 肉を本物としてきたエネルギ−が培ってきたものは、すべて培ってきた自分達で崩していくようになっています。それが自然に帰る流れです。その流れに沿って、そしてさらには流れの中を悠然と流れていける自分達であった、その気付きが待たれています。


 母の反省をしなさいと最初に告げられた瞬間に出てきた思いは、とても私にはできないということでした。拒否する思いを鮮明に覚えています。そんな私のスタートでした。

 心で感じたそのときから、自分に誠実に、自分に正直に、自分を裏切ることなくこの思いに従っていこうと、自分との誓い、約束を思い出したということでしょう。そしてその自分との約束は、非常に固いものでした。その一点だけは頑として譲らないその思いを感じるとき、私は私であって私でないものを感じます。
 すべてが自分への反逆であったとそう心から思えたから、誰でもない自分に対して懺悔の思いが噴き上がってきました。これはとても言葉では表現できないものです。私の反省は肉ではありませんでした。私の懺悔ももちろん肉ではありませんでした。肉が肉でした反省でも懺悔でもなかった、ただこの心の奥底から私自身が自分自身に反省と懺悔を促すもの、そのエネルギ−が噴き上がってきたのです。そのエネルギ−とはいったい何だろうか、ああこれが本当の私自身なのか、そう心で知りました。
 心で感じたものほど確かなものはありません。その私自身が自分を引っ張っていった、確かにすごいエネルギ−です。それらがみんな肉に向いてしまっていたのだから、本当に大変な状態でした。母の反省をしなさいと最初に告げられた瞬間に出てきた思いは、とても私にはできないということでした。拒否する思いを鮮明に覚えています。そんな私のスタ−トでした。


 肉の世界は代替できるけれど、意識の世界はそれはできない、絶対できない、自分を必要とするものは唯一自分である、肉の中でそして様々な現象を通して心を見ながら、今世私が学んだことです。

 肉の世界は代替できるけれど、意識の世界はそれはできない、絶対できない、自分を必要とするものは唯一自分である、肉の中でそして様々な現象を通して心を見ながら、今世私が学んだことです。このことを心で感じ入りました。周りの人達が社会が自分を必要としているのではなく、私が私を必要としているんだと本当に心で感じたとき、私は本当の意味で自分のために生きることの大切さと素晴らしさを知りました。
 私はもともと、人のためだとか家族のためだとか、あるいは自分さえ我慢してという自己犠牲の思いは、全くとでも言っていいほど今世使ってきませんでした。どちらかと言うと、己を優先する自己中心的な生き方、その思いを広げてきたのです。そしてその思いはやがて目の前に現象化してきましたが、結果的にはそれが肉をセミナ−に集わせたのです。その現象は当時の私にはまさに天変地異でした。しかし、それは同時に私の方向転換を促すものでしたから、セミナ−参加に、何となくとか冷やかし気分、その他邪道な思いは全くなく、自分のために生きるという意味合いこそ違っていたものの、真剣、必死、一生懸命でした。
 今の私があるのは、私は間違ってきた、これだと最初に思ったその思いを曲げずに、あるいは曲がりそうになってもまたそこへ戻ってという道筋を歩いてきたからだと思います。必死であり一生懸命であった、そんな思いを抱えて私は自分の道を歩いてきた、私にはその自負があります。


 地獄の底の底の奥底の自分と出会っていかなければなりません。大抵はそのずっと手前で留まって、ああ嬉しい、喜びだとやっている状態です。だからいつまで経っても肉の次元で行きつ戻りつを繰り返して、一歩を歩み出せないのです。

 思いを向けていくのは、自然に存在するものだけです。アルバ−トは自然です。そして動物や植物はアルバ−トを流しています。
 アルバ−トの波動を感じて、少しずつ少しずつ自分自身の波動を修正していくために、今それぞれに肉を持っています。だからアルバ−トを知らずまたは感じられず信じられずでは、何のための人生かということになってくるのです。心を見ない人には分からない、アルバ−トは狂信、妄信の世界ではありません。自分自身に用意してきた肉の時間です。その時間を大切に、アルバ−トを思いアルバ−トに心を向けていく日々を自分のために使ってください。
 本当の自分自身をその心で知るには、偽物の自分をその心で真向かいにとらえ、とことん知っていくことが必要です。どこまでも噴き出てくるそのエネルギ−、愚かな地獄の底の底の自分は、やがてただただいとおしくてたまらなくなってきます。優しさと温もりがそれらを包み込んでいってしまう、そこにはごめん、ありがとう、嬉しい、その思いだけが充満していきます。そうなるまで地獄の底の底の奥底の自分と出会っていかなければならないということでしょう。
 大抵はそのずっと手前で留まって、ああ嬉しい、喜びだとやっている状態です。だからいつまで経っても肉の次元で行きつ戻りつを繰り返して、一歩を歩み出せないのです。


 私の思いは地球に転生してくる意識達を含み、宇宙からアクセスしてくる仲間達へとその思いが広がっていきます。アルバートへの限りなき思い、それは私達宇宙の喜びです。それがこれから250年、300年かけて実現されていくのです。

 もう随分学んできた、そう思っておられる方が多い中、私はあえて申し上げています。現実はそんなに甘くはありません。やはり、250年、300年という時間は必要なんだと思います。どれだけ学んでこられたか、どれだけアルバ−トを感じアルバ−トを信じてこられたか、その真価を問われるのはこれからだと私は思っています。
 しかし、意識の転回は難しいと実感する中においても、こうしてともに学べるチャンスがあったことは、嬉しい限りです。そして、幸せな喜び溢れる自分自身に出会うチャンスが残されているこれからを思うとき、それぞれがそれぞれのこれからの時間の中で、アルバ−トへの道を見つけ、その道をただひたすら歩いていってくださいとお伝えしたいです。250年後の出会いをひたすらに待っています。一人でも多くの方と出会い、そして歩みをともにしていきたいと思っています。
 心で感じられない方には超現実的ですが、アルバ−トは自然であり宇宙です。アルバ−トと思えば宇宙です。私の思いは地球に転生してくる意識達を含み、宇宙からアクセスしてくる仲間達へとその思いが広がっていきます。アルバ−トへの限りなき思い、それは私達宇宙の喜びです。それがこれから250年、300年かけて実現されていくのです。今世のセミナ−がどんなセミナ−であったか、それはそのときお分かりになるかもしれません。


 アルバートの世界は喜びだけの世界です。喜び以外は何も存在しない世界です。だから、欲、他力のエネルギーは全く通じないのです。

 ともに学べることが本当に嬉しいですね、本当に幸せですね、私はいつもそう思ってあの場に座らせてもらっています。私の中はただただ喜びです。どんな波動を受けて、それがこの肉を通してどんな言葉になっても私は嬉しい、嬉しいだけです。優しさ、温もりに触れて飛び出てくる意識達がとても優しくそしてどれだけこのときを待ち続けてきたかが伝わってきます、響いてきます。だから、その方がどんなに肉をしっかり持っておられても、私はいつかきっと必ずということが信じられます。また信じられることが喜びです。
 一堂に会して学べる時間と空間を本当に大切にそして喜んでいきましょう。その思いをどんどん広げていけば、こんなに幸せな自分はないことを、どなたも感じられるはずです。まず、それです。それを忘れ去ってどんなにアルバ−トと思っても、所詮その世界はアルバ−トとは程遠い世界です。
 アルバ−トの世界は喜びだけの世界です。喜び以外は何も存在しない世界です。だから、欲、他力のエネルギ−は全く通じないのです。アルバ−トの前には全く通じないことを、今回もまたその肉を通し見てあるいは感じられたことでしょう。それでもそのエネルギ−は莫大に心に培われてきましたから、アルバ−トを信じる道を歩いていくことは大変なことです。しかし、やはり強い決断のもと、その一歩を踏み出してほしい、そう思います。


 何のために生まれてきたのか、心を見るためです。

 何のために生まれてきたのか、心を見るためです。
 ここが分からないから、仕事その他の肉の諸々に溺れその深みに自ら入り込んでいくのでしょう。そういうものをさらりと流せない、ひとつひとつしっかりとつかまえて、ああこれが私の生きがい、私の生きている証だと思い込んでいきます。そういうことを積み重ねてきた歴史、他力のエネルギ−を蓄えてきた心の癖は、そう簡単に修正できないけれど、最初の一行が心に響いてくるときが、それぞれに必ずやってくると思います。そのとき、自分が自分に用意してきた千載一遇のチャンスを活かせるように、すなわちそれぞれの次の転生に繋げられるような今世の学びであってほしいと思います。
 常に自分と自分の中で歩んでいく道のりです。そしてその自分の中でこれからもずっとセミナ−が続いていきます。アルバ−トと自分、いつも思うのはアルバ−ト、アルバ−トを思いアルバ−トを感じながら肉の時間が過ぎていく、それは決して肉に溺れずに肉に流されずに過ぎ去っていく時間となることでしょう。
 しかし、その確立がない状態では、時の経過とともにアルバ−トは遠い遠い存在となると思います。再び転生のときを得たとき、果たして自分に告げることができるかどうか、どうぞ今世の時間を大切にしていってください。


 肉の世界は出会いがあれば別れがあります。しかし、意識の世界は出会えれば、本物と出会えればそれは永遠です。別れはありません。だから言葉になりません。出会いとこれからを思えばもう言葉になりません。

 肉の世界は出会いがあれば別れがあります。しかし、意識の世界は出会えれば、本物と出会えればそれは永遠です。別れはありません。だから言葉になりません。出会いとこれからを思えばもう言葉になりません。
 はい、ありがとうございます、私はあなたと出会わせて頂きました。私は肉も喜んで喜んでこれからのときを過ごしてまいります。肉を頂いたことがこの上なく喜びであると心に伝わっています。
 転生を重ねてきた私自身は喜びでした。もちろん私のこれからは喜びです。真っ黒、真っ暗がようやく喜びであると自らに伝えた今世の私でした。今世、セミナ−をともにできましたことが最高に幸せです。肉を持って出会え、時間と空間を共有できたことが本当に嬉しいです。ああ、私達はいつでも会える、思えば通じる喜びと幸せを感じます。
 私の中でセミナ−は続きます。アルバ−トへの思いを心で実感する喜び、すべてがアルバ−トを目指して集ってくるその喜びを心で受け止めていくことでしょう。


 再びアメリカ、ニューヨークの地にて出会えることが嬉しい。本当に嬉しいです。

 再びアメリカ、ニュ−ヨ−クの地にて出会えることが嬉しい、本当に嬉しいです。アルバ−トへの思いをいっぱいいっぱいこの心に携えて、私は生まれてきます。貧困と人種差別で苦しむ境遇ですが、私自身の悩み苦しむ時間は短く、私の前に立ち塞がった壁は、あるときを境に一瞬のうちに消え去っていきます。姿形は変われど、変わらないものがあった、目と目の出会いは一瞬にして250年前を心に呼び起こす劇的なものです。もうそれでみんな思い出す、ああアルバ−ト、私はアルバ−トあなたをこんなにも思ってきましたと、嬉しさと喜びの中を心は駆け巡ります。
 それから、たくさんの人との出会いがあります。国境を越え、人種を超え、性別を越え、意識達はアルバ−トのもとに集ってきます。メディアを通して全世界から、みんなみんなアルバ−ト、アルバ−トに出会いたかったとその思いが結集してきます。
 もちろん宇宙の彼方から私達を目指してやってくる意識達、アルバ−トの波動はその意識達を迎え入れ、全宇宙とともに次元移行、そういうシナリオの中を私達は今歩みをともにしています。今世の肉を通して私はそのことを心で感じています。天変地異はアルバ−ト、喜びのエネルギ−だと心に伝わってきます。


 次元移行という流れの中にある私達です。私達は今その流れの中でこのようにして肉を持ち、様々な環境を設定してきました。それが心で感じられたなら、もう嬉しいだけです。

 次元移行という流れの中にある私達です。私達は今その流れの中でこのようにして肉を持ち、様々な環境を設定してきました。それが心で感じられたなら、もう嬉しいだけです。どんなに厳しい環境であっても、それは自らが目覚めるために自らに用意してきた愛であることが痛切に感じられるからです。愛です。本当にそれは自分に対する優しさと温もり、愛溢れる存在が自分自身であった、その自分との出会いは喜び以外にはありません。
 今世そしてこれから250年の間におけるそれぞれの転生の時間の中で、そのことが心で感じられる道筋を歩まれることだろうと思います。いえ、どうぞアルバ−トへの道を心で見つけてください。それは喜び、幸せの道です。喜び、幸せはアルバ−トを感じアルバ−トを信じることに尽きます。
 私は確かに今世目覚めがありました。しかし、私は特別でも異色な存在でもなく、地獄の底の底の奥底から這い上がってきた意識です。特別とか我一番ということが、地獄の底の底の奥底の意識の世界であることに気付き、それを喜びへと転回していっただけのことです。もちろん、その過程でアマテラスはちっぽけな世界であることも分かったし、心に持った教祖もただの肉の塊、肉を基盤とするちっぽけな世界のことだったと心で気付けたから、離すことができたということです。
 心で気付けるか気付けないかの違い、地獄の底の底の奥底を自覚しているか否かの違いです。


 真実の扉はみんなに平等に公平に開かれている、そして真実に触れるチャンスはみんなに平等に公平にある、このことは「意識の流れーアルバートとともにー」、この本が世に送り出されたことで、さらにはっきりと示されてくると思います。

 真実の扉はみんなに平等に公平に開かれている、そして真実に触れるチャンスはみんなに平等に公平にある、このことは「意識の流れ―アルバ−トとともに―」、この本が世に送り出されたことで、さらにはっきりと示されてくると思います。
 セミナ−に集っているから学んでいるということではなく、今世はそういうことがなくても、あるいは田池留吉とまみえることはなくても、その方々の意識の世界は動き始めているということでしょう。意識の世界はそういうものだと常々思っておりましたが、「意識の流れ―アルバ−トとともに―」が出版されたことによりそれがはっきりと感じられます。書店の本棚からそして公立、私立の図書館から、その他様々な経路を辿って手にし目に触れた意識達、その意識達の世界がこれから250年の時を経て目覚めていかれることだろうと思っています。
 もちろん、今世このようにセミナ−をともにし、学べるチャンスを共有できた方々とは、ぜひ250年後アルバ−トのもとに喜び合いたいという思いは、強くあります。それぞれがそれぞれの心をどうぞ250年後に繋いでいってくださいと、ただその一点に思いを馳せながら私はセミナ−に臨んでいます。


 ようやくにしてこれまで開かれてきたセミナーがどんなセミナーであったのか、自分の心で感じられる方々がボツボツ出てこられるようになったと思います。

 ようやくにしてこれまで開かれてきたセミナ−がどんなセミナ−であったのか、自分の心で感じられる方々もボツボツ出てこられるようになったと思います。ようやくにしてと言うのは、セミナ−には足繁く集ってこられても、失礼ながら自分の中心には据えてこられなかったことは否定できないと思うからです。それでも、本当に自分が今肉を持っていることを心の底から喜べる、ただそれだけだというものを感じることができたなら、万々歳だと思います。それほど、心の中に培ってきたエネルギ−、他力のエネルギ−はすごいということです。
 少しずつ少しずつ自分と周りの関係が改善される方向に進んでいっておられると推測していますが、大半の方々はその程度に留まっておられるように思われます。このセミナ−がどんなセミナ−であったのか、まだまだその認識は薄いと感じています。自分がどれほどそびえ立っているのかを心ではっきりと分かり、セミナ−がどういうものであったのか分かってくるのはまだ少し時間が必要なのかもしれません。
 また私としては、我こそチャネラ−だと自負している方々の発奮を期待しています。大変もったいないと感じています。その道具をどうしてもっと有効に使えないのかと私は思ってしまいます。


 アルバートを知ればアルバートしかないことが分かります。選択肢がないのです。本当にアルバートを感じ始め信じ始め、己の間違いに気付き始めれば、しっかりとつかまえているものは弱まってくるはずです。肉がどうしようああしようと思うまでもなく、自然にそうなってきます。

 アルバ−トを知ればアルバ−トしかないことが分かります。選択肢がないのです。当然です。例えば、アマテラスがいいとかアマテラス命とか、そういうふうにはなりません。離せないのは結論的にはアルバ−トの世界を知らないからだということになりますが、そのようにはっきりと思いたくない、そこのところがまたやっかいです。
 意識の世界には中間がありません。知っているかいないか、信じているかいないか、です。誰しもが喜びと嬉しさを感じて、私はアルバ−トを知っている、信じていると思いたいです。しかし、意識の世界、波動の世界はそうできません。アマテラス等をしっかりとつかんでいて、なおかつアルバ−トを感じているということなんてあり得ないのです。本当にアルバ−トを感じ始め信じ始め、己の間違いに気付き始めれば、しっかりとつかまえているものは弱まってくるはずです。肉がどうしようああしようと思うまでもなく、自然にそうなってきます。そうならないのは、やはりつかんでいるもの広げてきた世界に多大の魅力を感じているからです。
 そういう点を踏まえ、この際もう一度アルバ−トへの信を各自で確認しておいてください。そしてシビアに自分の現実を知ってください。肉では田池留吉に好感を持てても、中に鎮座している神々がやおら現れ出してくるのがセミナ−後だと思います。


 自分の現実を知るということは大切なことです。上げ底なしに正味の自分の今現在を知っていく、これはとても大切なことです。そして常に絶対評価、どちらかと言えば辛く評価したほうが正解かもしれません。

 自分の現実を知るということは大切なことです。上げ底なしに正味の自分の今現在を知っていく、これはとても大切なことです。そして常に絶対評価、どちらかと言えば辛く評価したほうが正解かもしれません。とかく大げさに表現したくなるのが肉の常です。感じている世界はちっぽけな世界であっても、それを何倍も何十倍もそれ以上に膨らませて表現することもあり得ます。もっとも、波動はごまかせないから、結局はそれはいつかそうではなかったとなってきますが、そういうものに巻き込まれていくと、そこからまた方向転換をするのにさあどれくらいの時間がかかるでしょうか。こういう間違いは何度繰り返しても懲りないです。なぜならば他力のエネルギ−が渦巻いているのが現実だからです。よほど、心を決めて自分と自分の中で歩いていこうと思えない限り、たとえば20年という学びの年月は水泡に帰するということです。
 これは本当だと思います。私はその厳しさを心で感じています。だからこそ信じられる、だからこそ喜びなのです。自分と自分の中にはアルバ−トしか存在しない、私はこの現実を波動で伝えています。


 心を見てきました、見てきたつもりです、しかしそれは基盤が肉であるならばそれは心を見てきたということにならないのです。肉を土台にしていては何も分からないということが、心を見ることで分かってくると田池留吉は伝えてくれているのです。

 私達は今世、心を見るということを伝えてもらいました。心を見ていけば分かりますよ、これほど優しくて愛溢れる表現はないでしょう。言葉もそう、そしてもちろんそこから流れる優しさに私達は何度も触れてきました。心を見ていけば分かる、そうですこれ以上のものはありません。素直に真摯な思いで実践していけば、どれだけ幸せの中に喜びの中にあるかが心に伝わってきます。
 みんな、最初は反発しながら、あるいは半信半疑で心を見るということを肉でし始めました。その作業がなかなかはかどらなかったのは、セミナ−参加の動機とか目的を見直してこなかったということもあげられると思います。また、心が敏感になり心で感じ始めると、反省が進んでいる、意識の世界を感じていると錯覚してしまって、そこから進めなかった方もたくさんおられると思います。もちろん今もそういう状態の方々もいらっしゃれば、方向転換を速やかにされている方々もおられると思います。
 心を見てきました、見てきたつもりです、しかしそれは基盤が肉であるならばそれは心を見てきたということにならないのです。肉を土台にしていては何も分からないということが、心を見ることで分かってくると田池留吉は伝えてくれているのです。


 波動を感じて日々幸せ、こんな日がやってくるなんて不思議です。悪の限りを尽くしてきたのに、私は今確かな喜びと幸せを感じています。

 波動を感じて日々幸せ、こんな日がやってくるなんて不思議です。悪の限りを尽くしてきたのに、私は今確かな喜びと幸せを感じています。私という存在が喜びであり幸せであった、その私は決して消えない存在であった、心に広がる世界は確かにそう伝えてくれています。
 アルバ−トを感じれば沸き立つような喜びが広がっていきます。アルバ−トの実在を確信する私には、あってよしなくてよしということがよく分かります。心がとらわれても、それは少し時間が経てば、さっと流れていくような感覚を味わっています。その学習を繰り返すことによって、とらわれる時間を段々に短縮していくことが、肉を持つ時間ということだと思います。
 アルバ−トを感じアルバ−トを信じるこの道を真っ直ぐに進んで250年後を迎える、何の狂いもなく淡々と遂行されていると感じています。目と目の出会いまで私はただ真っ直ぐに進みます。そして出会い後さらに加速度を増し、私達はともにひとつの道を突き進むだけです。それが今こうして心で確認できることがただただ喜びです。ありがとう、ありがとうの思いがこだまします。


 私にはアルバートの世界しかないのです。アルバートが現実、それしかありません。従ってその他のことは本当はどうでもいいことです。

 私にはアルバ−トの世界しかないのです。アルバ−トが現実、それしかありません。従ってその他のことは本当はどうでもいいことです。だからと言って、私は心ができているとか清く正しく美しいなどと思っていません。真っ黒だと言っています。しかし、私は真実を思うこと、アルバ−トを思うことについては何の邪念もないのです。ただアルバ−トを思えることが喜びで、幸せだということです。そして、私はアルバ−トの世界こそが唯一であり、本当の喜びと幸せはその世界にしかないと思っています。
 私の思いはそのような思いですが、ことさらにその思いを勧めるつもりはありません。ただ私にとってアルバ−トとはと尋ねられたときには、私はアルバ−トを感じて幸せです、アルバ−トとは私の現実ですとはっきりと答えます。
 私以外の方がどのように感じられているか、どのような思いを広げられているか、アルバ−トを感じアルバ−トを信じて喜びであるのか、それとも私とは違う方向へ歩んでいかれるのか、どうでもいいとは思っていませんが、こだわっていないのは事実です。
 私は基本的にすべてにおいて自由という思いを持っています。それぞれにおいて喜びと幸せを見つけられたらそれでいいのではないか、その中で私は私の喜びと幸せはこれですと語っているに過ぎません。


 自分をないがしろにしない、自分を裏切らない、それが自分に対する最大の優しさだと理解しています。

 すべてにおいて自由ということに、もう少し言葉を足しておきます。私の言う自由とは、その中において自分に対して責任を取るという厳しさと、自分に対する忠誠心がうかがえるものです。
 アルバ−トとは違うところで喜びと幸せを見出し、そしてそれがその方にとって本当に喜びであり幸せなら、それを押し留めるつもりはありません。説き伏せる思いもない、その方の自由です。アルバ−ト以外を選んだ結果がどうなっていくかを私は知っていても、あえてそういう行動には出ないでしょう。一見、冷たく見えますが、私自身そういうことが冷たいと思っていません。それは私は本当に意識の世界の優しさだとか素晴らしさを感じているからだと思います。地獄の奥底で苦しみ喘ぎ続けても、必ず自分自身が気付けるときがやってくる、それが母の温もりの中に生かされている意識達だと私は信じています。そして、私は私で自分自身が信じて選んだ道をひたすら歩いていくだけです。
 私の中には何かしらそういう自分に対する厳しさと忠義の思いがあります。それは、まさに地獄の奥底をのた打ち回ってきたことを裏付けるものだと私自身思っています。 自分をないがしろにしない、自分を裏切らない、それが自分に対する最大の優しさだと理解しています。


メッセージを読んで
 何のために生まれてきたのか、心を見るため。まさしく本当にそうだと感じています。肉にまつわることは、結局虚しいです。どうでもいいことです。本当の安らぎと幸せは、アルバートとともにの道を歩んでこそ。自分の道は自分でしか切り開くことはできません。他力など入り込む余地がありませんでした。甘えも妥協も存在する世界ではありませんでした。ごまかしも何もきかない、自分の心、本当の自分がすべてを知っていました。20年学んできて、いったい私は何をしてきたのだろうか、今私の中に存在するのは何なんだろうか、果たして私はどこまでアルバートを信じている、信じきっているだろうか、そう自問自答してみたとき、信じているとか、信じていないとか、それはとても言葉では言いようがない、波動しか存在しない世界なのだと、思わされます。
 肩に力を入れて頑張らねば、何とかアルバートの世界を波動を感じたいという気持ちはなくなりました。思わなくても、アルバートの波動の中に存在する私であって、私が心を合わせていけばいいだけ、合わせていける自分になればいいのだと、そしてそれが喜びなのだと思います。十分に愛され生かされ、これ以上なにも望まなくても、すべてが自分の中にあるということを心でさらに感じていったなら、私は本当に最高に幸せです。
 夫を見ているようで、結局は自分を見ている、自分の心の癖がさらに倍増されて見える環境もまた嬉しいです。なぜ夫婦になったのか、ありがとうしかありません。
 今日の核のメッセージは、骨身に染みました。自分をないがしろにしてきた、粗末にしてきた、自分に対して忠実ではなかった。本当にこれ以上の馬鹿はいないというほど愚かで聳え立つ自分です。そんな自分を抱きしめつつ、これからの道を歩んでいきたいと思います。
 田池留吉、本当にありがとうございます。出会えたことが嬉しい、そして思いを感じるとき、心はただただ温かく母親の胸に抱きしめられたように安らぎとぬくもりを感じています。



 意識の世界の仕組みを理解するために、夫婦とか親子とか様々な人間を自分の周りに配置します。それはそれぞれが決めてくることです。それが理解できれば、必要以上のこだわりは自然消滅していきます。

 家族の絆、夫婦、親子等々の繋がり、確かにそういうものはあります。しかし、そういうもので自分を縛っていけば苦しみでしょう。私達は、長い間それが苦しみだということが分からなかった、肉では当然分かりませんでした。そして、長く学ばれていても、そこから自分を解き放せない方は多いです。結局は自分の世界を固定してしまう、そこで何とか何とかと無駄なエネルギ−を費やすばかりです。
 肉の中にあって、しかし自分が見て感じているのは自分の世界、そこには自分しかいない、これを心で理解するのは難しいでしょう。責めたり裁いたり支配したり見下す相手が実際目の前に存在していれば、その物体にエネルギ−は向かっていってしまいます。そのエネルギ−を感じるのではなく、その物体に思いが集中していきます。自分に向けるはずのエネルギ−が、反対に作用していくから、またそこで新たなるエネルギ−が生じてしまいます。ブラックの上積みです。
 そういう意識の世界の仕組みを理解するために、夫婦とか親子とか様々な人間を自分の周りに配置します。それはそれぞれが決めてくることです。それが理解できれば、必要以上のこだわりは自然消滅していきます。そうすればそういう小さな枠の中から飛び出して自分を解き放す喜び、すなわち本当の自分の世界を広げていける喜びを感じていけると思います。また、そうでなければ転回は難しい、いつまでもどこまでも夫婦だとか親子だとかそういうものを引きずっていきます。


 もともと私達は自由で束縛のない存在です。自分でつかんで、つかんだものによって自分を縛って苦しんでいます。なぜ、つかんでしまうのか、そこに幸せと喜びがあると思っているからです。つかまえておきたいという思いが根底にあるからです。

 肉を持っていても肉の世界にこだわらない、つかまない、そういうことはあり得る、喜びと幸せの自分自身に出会えれば、それは不可能なことではありませんでした。それがアルバ−トでした。アルバ−トに出会った喜びと幸せです。
 肉を持っている以上、肉の思いを断ち切ることなどできません。出てくるのは自然です。しかし、そういうものに沈んでいきません。出てくれば、ふっとアルバ−トへ思いを向けるだけです。出ては消えていく、なくなるのではなく、確かにそこにあるのだけれど、それをつかまないから苦しまないだけです。
 もともと私達は自由で束縛のない存在です。自分でつかんで、つかんだものによって自分を縛って苦しんでいます。なぜ、つかんでしまうのか、そこに幸せと喜びがあると思っているからです。つかまえておきたいという思いが根底にあるからです。
 アルバ−トがあれば、肉のことはつかみません。つかみかけてもさらっと流れていきます。全く違う次元の幸せと喜びが、そういうものをさっと流していくような感じです。つかまないうちに流していくようです。


メッセージを読んで
 世の中がおかしい、何かが狂っている、そう感じる出来事が多い中、自分の心のなかを覗いて見ると、噴出せんばかりのエネルギーの存在を感じます。タイケトメキチと戦い、踏み潰し握りつぶさんとする、くそったれ、死ねと豪語してきたエネルギー。この宇宙をタイケトメキチの勝手にはさせんと逆らい反逆し続けたエネルギー、でもそれも何か愛おしく感じられます。今やっと頑固にコチコチに固めて圧縮してきたエネルギーがアルバートの温もりに誘われて、心の中から開放される、そんな時がきたことをすべての意識が感じている、それに素直になればいいだけなのだと思います。肉は邪魔ばかりしてきました。聳え立つってそういうことだったのですね。心の中から、苦しみもだえ、すべてを破壊しようとすさまじい勢いで飛び出してくるエネルギーを感じるたびに、申し訳なく涙が流れます。今という時がどんなときなのか、セミナーに参加している、いないにかかわらず、この宇宙に存在するすべての意識たちに働きかけているアルバートの波動をさまざまなところで感じるとき、あまりにも田池留吉の存在を小さく見ていた自分を感じています。
 田池留吉と核は別世界の人間、まぁ勝手にやってくれと惰眠をむさぼっていた自分を振り返るとき、あまりのお粗末さに冷や汗がでます。意識の世界を語りながら、何もわかってはいなかった、セミナーが開かれ、意識の流れの本が出版され、核のメッセージが毎日伝えられる、あまりにもあたりまえに受け止め、そこにどれほどの愛がこめられ、伝えられていたか、あまりにも傲慢でした。必ずアルバートへ帰ってくることを、信じて待って待ってくれているアルバートの存在を心に感じるとき、すべてはアルバートのもとにひとつを感じます。今こそ意識の転回を・・・することはそれだけです。



 意識の転回、真実を心で分かるにはそれしかありませんが、それは天変地異を体験していく中でしかもう成し得ない現実を、自分の心で感じていってください。

 意識の転回、真実を心で分かるにはそれしかありませんが、それは天変地異を体験していく中でしかもう成し得ない現実を、自分の心で感じていってください。たとえ、どんなに意識の世界を語ろうとも、そんなものでは到底転回は無理です。今、意識の世界の現実とはそういう状態ですと私ははっきりと伝えているつもりです。
 アルバ−トを感じた、アルバ−トの波動に触れた、確かにそうかもしれません。しかし、その程度では、それですんなりと意識の転回が進んでいくことは難しいです。だから250年の時間が必要なのです。意識の転回を本格的に始めるのは、その間です。アルバ−トの波動に触れた意識達の目覚めを促すものが天変地異、次元移行の流れの中で必ず起こってくるのが天変地異です。
 ほんの少し感じて、アルバ−トを感じた、分かってきた、私は素晴らしい、そして落ちていくという道筋を辿っていくのは常套なのかもしれませんが、その繰り返しではとてもとてもということです。
 しかしながら、今世は難しくても、このようにせっかく真実の世界に触れるチャンスを作ってきたのだから、250年後に必ず心を繋いでいってくださいという思いを込めて、私は語らせてもらっています。
 どうぞ、そういう現実であることを認識して真摯な思いでご自分を大切になさってください。


 肉は適当に本当に適当に肉の中に漂っているだけでいいのだと思います。そして、肉の表面に現れてくる思い、いわば汚れを確認して、あとは浮き出てきた汚れを浸透させずに流し落としていくだけです。

 千載一遇のチャンスでした。それが今世でした。私はそのシナリオを書いて忠実に遂行してきただけです。その思いが肉を持たせたとすでに肉でも感じています。肉を持って肉でない私自身の思いが心に響いてくる現実は、やはりすごいと思います。そのすごさは肉をそびえ立たせる世界の小ささを感じさせてくれます。そういうものではありませんでした。そんなものをはるかはるか超えたところに私という存在はありました。だから嬉しいだけです。はっきりと見える意識の流れ、その流れだけが真実であることが心に伝わってきます。
 だから逆に言えば、そうなれば肉は適当に本当に適当に肉の中に漂っているだけでいいのだと思います。そして、肉の表面に現れてくる思い、いわば汚れを確認して、あとは浮き出てきた汚れを浸透させずに流し落としていくだけです。
 もちろん、それには流通をよくしておかないといけないでしょう。心を見るということで、カチカチの汚れ、詰まっていた汚れを溶かしていくのです。従って、心を見るということがなければ、流通は悪くなり汚れはさらにカチカチに凝り固まって詰まっていきます。大きな強い衝撃が働かないと洗い落とすことができない状態です。今の人類はみんなそういう状態だと思います。それは学んでいると思っているあなた自身も例外ではないかもしれません。


 アマテラスも温もりと喜びを伝えてくれます。その実態は氷のように冷たいものですが、あなたがほしいと思うなら、あなたに温もりも喜びも感じさせてくれます。

 アマテラスも温もりと喜びを伝えてくれます。その実態は氷のように冷たいものですが、あなたがほしいと思うなら、あなたに温もりも喜びも感じさせてくれます。その温もりとか喜び、優しさをアルバ−トのそれだと思い込んでいる方もおられるようだし、そうではないと感じながらも、なかなか素直になれない方もおられるだろうと思います。確かに、その見極めは難しいようですが、本当の自分自身は知っています。必ず軌道修正を促してきます。だから、素直であることが一番です。その他のどうでもいいことには素直になれても、ここぞというときには己を出してくる、そういう方は難しいです。
 あなたが本当に心の底からアマテラスを愛しいと思い、自分の中でアマテラスの供養が進んでいったときにアマテラスから伝わってくる温もりと喜び、優しさを、どうぞ感じていってください。そして、あなたがアルバ−トを感じたいという思いで、心を向けて感じてきたものとは全く違うことを知ってほしいと思います。
 波動です。自己供養の進んでいないアマテラスの波動は大変厳しいです。アマテラスをそびえ立たせたまま、温もり、喜びと言っていることを知ってください。今、アマテラスを例えに取りましたが、他力の神々の世界はみんな同じです。言葉は温もりとか優しさ、喜びであっても中身は全く違うということなのです。


 今、セミナー会場で最終段階の学びをしています。しかし、そびえ立っている方には、そのすごさは分からない、従って自分以外は軽く受け止め軽く流してきたのです。だからいつまで経っても何も変わっていないのです。

 「波動を感じてください」それだけです。難しい論理も延々と続く反省も不要です。論理を繰り広げ、反省に反省を重ねても、何も分かりません。素直になって、自分が流してきた波動、すなわち自分自身の波動を真っ直ぐに心で受けていってください。これは自分の現実を知るということです。そして本当にアルバ−トを信じている意識から流れる波動の世界を感じてください。
 今、セミナ−会場で最終段階の学びをしています。私はそのことを淡々と受け止めています。肉は淡々としていますが、どんなにすごいセミナ−の場であるか、私自身は心ではっきりと知っています。しかし、そびえ立っている方には、そのすごさは分からない、従って自分以外は軽く受け止め軽く流してきたのです。だからいつまで経っても何も変わっていないのです。肉では学んできたと思いたいでしょうが、波動は全く正直、絶対にごまかせません。
 確かに今世、田池留吉と出会いそしてセミナ−に集っている方々はすごいです。それぞれに広げてきた意識の世界はすごいと思います。それは莫大なマイナスだから、それがプラスに変わればすごいということを言っているのです。
 自分が素晴らしいと思っている世界がどの程度のものであるか、田池留吉を崇めるのではなく、タイケトメキチ、アルバ−トの世界を知ることの喜びと幸せ、それらはプラスに転じてこそ分かってくるのです。


 本当の自分は知っています。何が幸せで何が喜びであるのかをいつも伝えてくれています。その思いをかき消し踏み潰してきたのは、素直でない己偉しの自分であることもきちんと伝えてくれているはずです。

 あなたは自分のために生きておられますか。自分のために、あなたは肉の時間をどのくらい費やしてこられましたか。心は今、軽やかですか。あなたは今満ち足りていますか。これからの自分が見えていますか。
 こういった類の問いかけをしながら、日々の生活を流していけばいいのではないでしょうか。アルバ−トを感じながら、アルバ−トとともにあることを感じながら過ごす時間、それは何も特別な時間ではないと思います。ごく自然なことだと思います。アルバ−トが分からない、アルバ−トなんて知らない、そう誰もが当然のように思っていることこそが、狂い続けてきた私達を象徴しているのでしょう。
 肉を本物とする思いが大手を振っている中で、そのことに気付いていくことは難しいですが、それでもそれぞれが自分に問いかけながら、肉を持っている時間、本当に自分のために生きていくことを始めてみることが大切です。
 本当の自分は知っています。何が幸せで何が喜びであるのかをいつも伝えてくれています。その思いをかき消し踏み潰してきたのは、素直でない己偉しの自分であることもきちんと伝えてくれているはずです。


 莫大なブラックパワーだから分かる、ブラックの宇宙と通じてきたから分かる、本当の温もりと喜びが分かります。莫大なエネルギーだからこそ、マイナスがプラスに転じればすごいのです。

 莫大なブラックパワ−だから分かる、ブラックの宇宙と通じてきたから分かる、本当の温もりと喜びが分かります。莫大なエネルギ−だからこそ、マイナスがプラスに転じればすごいのです。そのすごさを私自身は心で感じ入っています。半端なエネルギ−では到底成し得ないこれからを思うとき、やはり今世の出会いがすべてでした。出会いがあって、マイナスがプラスへと変わっていく中で、私は言葉では言い尽くせない喜びと幸せそして温もりを感じてきました。それはこんなことが本当にあるのかと思うほどの心の体験でした。
 その体験がある私には、アルバ−トを感じているならば、どうして心が定まらないのか、それがとても不思議なことでした。感じているものが違うのか、または感じていないのか、どちらかだということでしょうか。
 とにかく私の培ってきたエネルギ−は莫大です。しかし、今世というこの時間を頂き、私は大変幸せです。そしてこの喜び、幸せを何倍も何十倍、何百倍にも膨らんでいく250年後の出会いがあると思うと、ただただありがとう、親愛なる我が宇宙よありがとう、ともに歩いていこう、そんな思いが湧き出てきます。


 アルバートへの信は自己供養を通してしか芽生えてきません。そして本当にアルバートを信じていれば、どんなすさまじいエネルギーにも飲み込まれるということはありません。信じてやっていくかどうか、それだけです。

 狂う恐怖を感じたことがありますか。夜、寝られない、食べられない、胸のあたりがザワザワして落ち着かない等々の経験はありますか。今はなくても、ある日突然、何かのきっかけでという危険性はみんなにあると思います。決して他人事ではないです。心は敏感になるものの、自己供養の進まないままの状態ではそういうふうになっていきます。しかし、セミナ−はもうありません。後は自分でやっていくしかないのです。そう腹を決めてやってください。田池留吉は救えません。自分を救うのは自分です。
 どんなに脅かし恐怖を吹き込んできても、それは自分自身です。自分の中で自分の影に脅えているだけで、殺すのも殺されるのも自分の世界の出来事です。そしてそれは今、まさに肉を持って地獄の奥底の自分と出会っているということです。どうぞ両手を広げて迎え入れてあげてください。優しい温もりで包んでいってください。それがあなたのアルバ−トへの道、アルバ−トとともに歩く道です。アルバ−トを感じアルバ−トを信じること以外に、自分を地獄の奥底から救い出すことはできない、それがあなたが今世肉を持って自ら知りたかったことではないのでしょうか。
 アルバ−トへの信は自己供養を通してしか芽生えてきません。そして本当にアルバ−トを信じていれば、どんなすさまじいエネルギ−にも飲み込まれるということはありません。信じてやっていくかどうか、それだけです。


 田池留吉に心を合わせると、田池留吉の肉はない、私の肉もない、タイケトメキチ、アルバートの世界がそこにあるだけです。その世界が心にどんどん響いてくる、肉があっても肉がない、本当にすごい、しかしこれはこれこそが現実なんだと実感です。

 私は自分自身が莫大なブラックのエネルギ−を宇宙に垂れ流してきたことを先刻承知しています。私は真っ黒が嬉しくてたまらないとずっと言い続けてきました。真っ黒は優しい、真っ黒は本当の喜びと温もりを伝えてくれるとも表現してきました。そして、今、私は優しさと温もりが自分自身であったと実感できています。今世、その自分自身に心を向ける、心を合わせることを知りました。合わすことができる自分に蘇りました。だからどんなブラックの自分自身と出会っても、もう私は自分を狂わすことはありません。
 田池留吉に心を合わせると、田池留吉の肉はない、私の肉もない、タイケトメキチ、アルバ−トの世界がそこにあるだけです。その世界が心にどんどん響いてくる、肉があっても肉がない、本当にすごい、しかしこれはこれこそが現実なんだと実感です。
 誰がいるから幸せ、何があるから幸せ、そうではなかった、アルバ−トと出会ったから幸せ、セミナ−は幸せと喜びに尽きました。私に肉を持たせそしてセミナ−会場に肉を運ばせたすべてにありがとうしかありません。


 我が人生万歳、そう自分に堂々と言える、そんな私を誰よりも喜んでくれている私がいます。誰よりも私を愛し誰よりも私を慈しんでくれている、そんな私とこれからもともに歩んでいくことが、私の喜びであり幸せです。

 我が人生、万歳です。肉には何もありません。平々凡々の肉です。しかし、この肉は知っています。肉を通して本当の自分自身と出会えました。今、肉を持っている意味が痛いほど分かります。本当に嬉しいです。本当に幸せです。
 これまで数え切れないほどの肉を持ってきましたが、それがこの肉とあと一回を残すことを思えば、私自身何とも言えない気持ちになります。肉に対してありがとう、肉を持たせてもらってありがとう、優しい母なる意識の流れの中をこうして存在してまいりましたと、私は私にそう言っているようです。そして、これからも存在し続けていく自分自身に思いを馳せるとき、ああ本当に何て幸せなことだろうかと思います。
 アルバ−ト、今世その波動に出会えて、私の転生はすべて無駄ではありませんでした。地獄の奥底に落ち、自分自身を呪い殺してきた数々の転生の中、本当の自分自身との出会いをこのように実現できました。その喜びと幸せをともに私達は味わってきました。その喜びは尽きることはありません。
 我が人生万歳、そう自分に堂々と言える、そんな私を誰よりも喜んでくれている私がいます。誰よりも私を愛し誰よりも私を慈しんでくれている、そんな私とこれからもともに歩んでいくことが、私の喜びであり幸せです。


 今回のセミナーの最後の現象は、私には大変な喜びでした。誰が何が、そんなちっぽけなものはどうでもいい、何もかもすべてがアルバートを目指して集結してくる流れ、その流れを感じ、崩れ去っていく喜びを感じ、ありがとう、嬉しい、喜び、それだけでした。

 今回のセミナ−でもまた、それぞれにたくさんの気付きと出会いがあったと思います。その中でも最後の現象は、私には大変な喜びでした。
 アマテラスが崩れていきます。アマテラスが崩れていく、日本の国とともにアマテラスが崩れ去っていく近未来をその喜びを感じさせてもらいました。アマテラスが自由に本当に自由に羽ばたいていけるこれからを思うとき、何とも言えない喜びを感じます。
 私はアマテラスがとても愛しいのです。アマテラスの宇宙を広げてまいりました。さらにもっと大きなすさまじい宇宙のエネルギ−をも心に飲み込んでまいりました。そしてそれらの宇宙はすべてが暗黒でした。しかし、それらの宇宙とともにアルバ−トへ帰っていけるこれからの確かな足取りを感じ、ただただありがとう、ありがとう、嬉しいだけでした。
 暗黒の宇宙が変わっていく、私にはその喜びがはっきりと分かります。だからただアルバ−ト、アルバ−トがあるのみです。誰が何が、そんなちっぽけなものはどうでもいい、何もかもすべてがアルバ−トを目指して集結してくる流れ、その流れを感じ、崩れ去っていく喜びを感じ、ありがとう、嬉しい、喜び、それだけでした。


 肉を持ってきた本当の意味を知り、その喜びを知った今、私の価値基準は完全に変わりました。それは見事だと思います。

 自分の中に真実がありました、自分自身が真実でした、このことに出会えたことが、どれほどの喜びであり幸せであるかを言葉で表現することはできません。ただ、その喜びと幸せを感じれば感じるほど、ああ私は本当に苦しみ続け狂い続けてきたんだと思うばかりです。そしてそんな私が愛しくて愛しくてたまりません。自分が愛しいから優しく包み込んでと、ことさらに思わなくても、そうするのが自然です。自然の流れの中で自分自身を優しさの中に温もりの中にいざなっている、それがアルバ−トの中でなされている自然のことだと思います。自然だから理屈ではない、その手順を肉では説明できない、しかし、アルバ−トを感じアルバ−トを信じていけば、どんどんその作業ははかどっていきます。はかどっていくという感覚すらなく、ただ分かるのは、私は本当に幸せですということだけです。
 肉を持ってきた本当の意味を知り、その喜びを知った今、私の価値基準は完全に変わりました。それは見事だと思います。
 真実を知るためにそして自分自身を知っていくために、肉が必要であって、肉はそれ以上でもそれ以下でもなかったことを心で知りました。そして、本当の自分自身とともに肉も生きていくことの幸せと喜びを感じています。


 去る者は日々に疎しの譬えのように、時の経過とともにアルバートは遠い存在になっていくのが、実際でしょう。そして、これまで息をひそめていた他力の神々が再び暗躍していく経路を辿っていくかと思われます。しかし、それもまたいつの日にか、必ず修正されるときがやって来る、そう信じています。

 6月の下呂セミナ−も、これまでと同様に淡々と迎えそして淡々と遂行されていきます。セミナ−が開かれてきた約20年の年月は長くもあり短くもあったことでしょう。学ぶ年月に関係なく、みんなに共通して言えることは、集えてよかったということではないでしょうか。ありがとう、ありがとう、その思いだけがこだまする喜びの中で、このように肉を持ち出会わせてもらったことが幸せですと、きっとそれぞれにそう思っておられると思います。
 しかし、現実的には、今はそうであっても時の経過とともに、濁流の中に、ともすれば流れ流れていってしまう方々も多いかと思います。それでも確かに嬉しいなあ、幸せだなあと一瞬でも味わえたのです。一瞬でも真実の世界を垣間見られたのです。難しいかもしれませんが、その時のことを心に呼び起こしながら、日々一日一日を過ごしていかれたらと思います。
 アルバ−トが現実というところまでいっていなければ、確かに難しいです。去る者は日々に疎しの譬えのように、時の経過とともにアルバ−トは遠い存在になっていくのが、実際でしょう。そして、これまで息をひそめていた他力の神々が再び暗躍していく経路を辿っていくかと思われます。しかし、それもまたいつの日にか、必ず修正されるときがやって来る、そう信じています。


 狂う要素はみんな持っています。これからそれが浮上してきます。セミナーが幕を閉じると同時にボツボツと現れてきます。それからが本当の学びです。チャンス到来です。

 狂う要素はみんな持っています。これからそれが浮上してきます。セミナ−が幕を閉じると同時にボツボツと現れてきます。それからが本当の学びです。チャンス到来です。どうやっていけばいいのか、すべて伝えてもらっています。その通りに素直にただひたすら素直に実践していけばいいだけです。
 自分が培ってきたブラックを握って自滅していくか、それともそこから自分を解き放していくか、それはすべて自分次第です。どんなに中が脅しても、死ね、消え失せろと喚き、苦しみを叫び続けても、温もりと優しさの自分自身を信じていたならば、何も恐れることはありません。それがアルバ−トを感じアルバ−トを信じアルバ−トとともにあるということです。決まり文句のように、私はアルバ−トを感じています、信じています、ひとつの喜びを感じています、と言うのではなく、本当に正真正銘そういう状態であるならば、アルバ−トに瞬間心を合わすことができるのではないでしょうか。
 そして感じられる、どれだけ喜び幸せの存在であるか、肉を持たせてもらったことの喜びとありがたさが痛切に感じられます。そうやっていくこと、すなわち自己供養を実践してこそ、本道を歩いているということです。
 しかし、狂うとかそういう状態になって、いかに学びが浅かったか、あるいは何も学んでこなかったか、それが分かるだけでもその方にとっては、一歩前進なのかもしれません。


 何とかしていったら何とかなる、意識の世界はそんないい加減なものではありません。何もかもかなぐり捨てて、捨て身で自分と向き合う気構えなくして、本当のことは見えてこないです。

 みんな剣が峰に立っているのに、その自覚があまりないまま今現在に至っているのかもしれません。毎回のセミナ−でお分かりのように、一度心につかんだ神々、教祖等々を離していくのは大変難しいです。いえ、本当は難しくはないのですが、難しくしてしまっただけなんでしょう。それほど己が偉い、そびえ立っているということです。何とかしていったら何とかなる、意識の世界はそんないい加減なものではありません。何もかもかなぐり捨てて、捨て身で自分と向き合う気構えなくして、本当のことは見えてこないです。
 何が変わっても絶対変わらないものがあると思い続けてきた私ですが、分からない間は肉、肉のみで生きてきました。しかし、そんな私がどんな形にせよ、セミナ−に集えたのです。ここに探していたものがあると直感した私は、そんなお茶を濁すような学び方はしてこなかったです。そのときそのとき言われたことは、全部こなしました。そして、セミナ−における自分を自分で採点しながらやってきたのは、今も変わりません。
 今、私は何のために生まれてきたのかということに、心ではっきりと答えることができます。私の意識の世界はもちろんのこと、肉も幸せです。私にはアルバ−トがあるからです。


 徳俵に足がかかった状態の今世でした。生まれてくるということはすごいことでした。

 徳俵に足がかかった状態の今世でした。生まれてくるということはすごいことでした。今は、肉の中にあって、流されずに溺れずに沈まずに、ただ漂いながら、自分の思いを遂行する、それこそが私が望んできたことだったと感じています。自分の思いとは、自分のために生きていこうと決めてきたことです。
 自分なりに様々な局面を迎えて、苦しみ悩み迷いながらも、私は今ひとつの結果を出しています。自分としては、ようやくここまでこぎつけた思いです。自分のために生きていこう、生きていきたいという本意がどこにあったのか、今は肉でも合点しています。
 肉を持つことの意味と大切さを知っているから、私の中は厳しいです。その厳しさは優しさです。自分の面倒は自分で見ていける優しさです。肉の空間にこの肉を漂わせながら、私は私と向かい合い対話をしていける喜びを知っています。
 必死に肉を願い出た自分自身の思いが、今こうして現実のものとなっています。私はこれほどの幸せはないと思っています。思い通りにアルバ−トに出会え、自分自身の締めくくりに向けて、これから250年、300年を用意してきました。一歩一歩前進あるのみです。


 誰一人例外なく、アルバートを選ぶことができます。「はい」と素直に選んでいけば、誰でも幸せと喜びを享受できるのです。これほど簡単なことはないです。もちろん、お金が大事、神様が大事では、アルバートを選ぶことは不可能です。

 月日の過ぎるのは早いです。UTA会セミナ−が始まってもう3年になろうとしています。ホ−ムペ−ジとともに歩んでまいりました。あっという間の年月でした。そしてこれからもしばらくはホ−ムペ−ジとともに歩んでまいります。ますますアルバ−トへの信を深めていくこれからです。文字通りアルバ−トとともに歩む時間を共有できることだろうと思っています。
 私達はアルバ−トを選ぶ自由の中にありました。こんな喜びはありません。私は心からそう思っています。誰一人例外なく、アルバ−トを選ぶことができます。「はい」と素直に選んでいけば、誰でもが幸せと喜びを享受できるのです。これほど簡単なことはないです。もちろん、お金が大事、神様が大事では、アルバ−トを選ぶことは不可能です。いくらアルバ−トと思っても、お金が神様が幸せと喜びを遠くに追いやっていきます。アルバ−トが分かってくれば、それはいとも簡単に分かることなのですが、それらを握っている間は、絶対に分からないお話でしょう。
 UTA会セミナ−も滞りなく終了していくことだろうし、後半の3回も淡々と遂行されていくでしょう。そこから何に気付きどう活かしていくかは、それぞれに委ねられています。元気で楽しくともに学べることを喜んでまいりましょう。


 「意識の流れ−アルバートとともにー」を心で読んでおられますか。セミナー会場には集っておられませんが、この本を読んだ人達の、その肉を通して真実の世界に触れた意識達の喜びが伝わってきます。それは、「待っています。待っています。250年後に出会えることを待っています。」この思いです。

 「意識の流れ―アルバ−トとともに−」を心で読んでおられますか。
 セミナ−会場には集っておられませんが、この本を読んだ人達の、その肉を通して真実の世界に触れた意識達の喜びが伝わってきます。それは、「待っています。待っています。250年後に出会えることを待っています。」この思いです。すごいと思わざるを得ません。この本は波動だと改めて確認しています。
 その方々は、私達と違いセミナ−会場には一度も肉を運ばれていません。しかし、数え切れないくらいにセミナ−に集っている方々と同じように、いえもっと真剣に学んでいるかもしれません。本を手にして読み進めていく中において、人生とは何か、過ぎ去りし日々を振り返り、自分を振り返り、自分を生んでくれた母親を思い、心を見ることをやり始めているのでしょう。
 どうぞセミナ−会場で涙し汗したことを大切に、素直になってこの本とホ−ムペ−ジに向き合ってください。そして、あなた自身の学びの年月をどうぞ無駄にすることなく、あなたの来世に繋いでいってください。
 セミナ−会場に人がたくさん集ってきて、セミナ−が盛況であっても、私は本当はそんなことどうでもいいと思っています。それよりも本当に自分のこれまでの間違いに気付き、この意識の流れの中をともに歩めるのかどうなのか、それを喜び合える出会いがあればいい、私はそれだけです。


 250年後の来世を見込んだ今世の時間です。私は今世をそのようにとらえています。250年後のための今世です。従って、今世は非常に大切です。

 250年後の来世を見込んだ今世の時間です。私は今世をそのようにとらえています。250年後のための今世です。従って、今世は非常に大切です。今世があって250年後があります。そう感じている私にとって、今世は万に一つも外せません。
 すべて250年後を見据えたところの思いがあって、その思いが肉を動かしてきた、動かしていると感じていますから、これからどう生きていくのか、どう過ごしていくのか、答えは出ています。肉とはそういうものだと思っています。それがはっきりと感じられるから、肉もまた幸せなんです。
 肉を動かすエネルギ−、それがマイナスからプラスへと転回していった今世、そしてそのエネルギ−こそが大いなる喜びであると知った今世、私の喜びはどれほどのものか、この喜びは尽きることはありません。
 愚かな肉を支えている中の思い、すなわちアルバ−トとともに歩いていきます、生きていきます、この思いは厳しいけれど優しいです。それは絶対に変わらない私自身です。心を繋いだ私は、変わることのない自分自身が今世の肉を脱ぎ捨て、来世の肉を着けるだけです。淡々とその時期が来るまで心を見ていればいいと思っています。


 真っ黒、真っ暗の中で両手を広げて待ってくれていた温もりと優しさに、意識達はなかなか素直に飛び込めませんでしたが、それもひとつ崩れふたつ崩れ、そしてドッと音を立てて崩れ去っていく喜びと幸せの中で、確かにしっかりと待ってくれていた私自身と出会え、私はセミナーとともに成長させてもらいました。

 真っ暗な中に一点の光を求めて集った1993年4月、熱海の南明ホテル、一泊二日のセミナ−でした。新大阪から一人で新幹線に乗り、初めてセミナ−に参加しました。その車中から富士山がはっきりくっきり見えたのを憶えています。それ以来何十回と東の方に出かけましたが、あの時ほど綺麗に見えたときはなぜかありませんでした。
 楽しかったです。夢中でした。田池、お前の正体を暴いてやる、田池がなんじゃと中は喚きながら、それでも探しているものはここにしかないと集い続け、セミナ−とともに生活が回っていました。
 真っ黒、真っ暗の中で両手を広げて待ってくれていた温もりと優しさに、意識達はなかなか素直に飛び込めませんでしたが、それもひとつ崩れふたつ崩れ、そしてドッと音を立てて崩れ去っていく喜びと幸せの中で、確かにしっかりと待ってくれていた私自身と出会え、私はセミナ−とともに成長させてもらいました。この道筋を辿るために、今世の現象およびすべての転生があり、それらが今みんなプラスだったことを知り、ただありがとうございましたしかありません。
 私には250年後が現実で次元移行が現実です。だから、きっと心を繋いでいってくださいとお伝えするだけです。250年後の出会いをただひたすら待っています。出会って必ず次元移行を果たしていきましょう、そう私達は呼びかけています。


 肉の世界は、ただ心を見るためにあることを心で感じ始めたら、見るもの聞くものみんな違ってきます。深入りしないし、深追いしない、心につかまずにみんな通り過ぎていくだけです。本物を知れば、肉の世界には何もないことが分かるからです。

 肉の世界は、ただ心を見るためにあることを心で感じ始めたら、見るもの聞くものみんな違ってきます。深入りしないし、深追いしない、心につかまずにみんな通り過ぎていくだけです。本物を知れば、肉の世界には何もないことが分かるからです。どんなに求めても探しても、そこには真実はありません。きっとそのことが心で分かるまで、肉を求めていくことでしょう。肉が肉を求め肉のパワ−を求めてきた真っ黒な歴史があるにも関わらずに、懲りずに同じことを繰り返していきます。心で分かるまで繰り返されます。
 肉、肉で生きている人達を見下げはしません。当然私自身を誇る思いもありません。私は自分が選んだ我が道を淡々と行くだけです。我が道を行くという潔い思いは、アルバ−トを感じアルバ−トを信じ、アルバ−トとともにある現実を裏打ちしたものです。
 波動として確かにあるアルバ−トの世界こそが現実だと思えなければ、我が道を淡々と行くということは困難です。常に、外からの影響を受けて、心を揺らすとかぐらつかせるとかしながら流れていく、時を費やしていってしまいます。
 見るもの聞くものそしてこの肉もみんな消えてなくなる影です。影は、つかもうとしてもつかめない、もともとないからです。影をつかんでいないで、アルバ−トという現実に心を向けてください。


 なぜ自分は苦しみ、悩み、悲しみ、呪い続けてきたのか、その原因を自分の中に追求していかない限り、それらのものから自分を解き放すことができません。心を見ることを知らない人達は、原因を自分の外に探していきます。それが他力の心、最も冷たい心です。

 思いを綴っています。自分が感じたことを文字に置き換えているだけです。誇張はしていません。
 心で感じられるかどうかです。アルバ−トが本当であり、波動の世界だけが唯一の世界であるかどうかは、それぞれの心で感じていくしかないということを伝えています。私自身、そのことを信じてくださいと力説しているつもりもなく、特に私達と歩調を合わせてくださいとお願いするつもりもありません。そんなことをしても、どうにもならない世界だと知っています。すべてにおいて自由だと思っています。
 目を閉じてふうっと一呼吸するだけで、幸せを感じます。別に目を閉じなくてもふっと自分を思えば、幸せと返ってきます。存在そのものが幸せだと思えます。
 世の中がどのように変わっても、私の中に、絶対変わらないものがありました。その心の目で自分自身を見て周りを眺めたとき、すなわちアルバ−トを感じている心には、どんなこともよかった、ありがとうと返ってくるだけです。
 なぜ自分は苦しみ、悩み、悲しみ、呪い続けてきたのか、その原因を自分の中に追究していかない限り、それらのものから自分を解き放すことができません。心を見ることを知らない人達は、原因を自分の外に探していきます。それが他力の心、最も冷たい心です。


 そびえ立っている自分も愚かな自分も認めようとしなくて、幸せが喜びが分かるはずがありません。また、そびえ立っている人ほど、愚かな人ほど、今という時間がどれほど大切で、ありがたいかが分からない、だからいつまでもそびえ立っているし、どこまでも愚かだということでしょう。

 自分だけが苦しんできたのではありません。みんなそれぞれに苦しみがあり、色々とあります。しかし、苦しいことだけをいつまでも訴え続けていくのは、とても賢明とは思えません。その苦しみから、どう自分を解き放し、喜びへ転回していくかですが、それは心を見ることを通してしかできません。
 自分を救うのは自分、このことがなかなか心で分かりません。そして、自分を自分で救えるあなたは本当にすごいんですよと、こう表現すれば、それを肉でとらえてしまいます。そして、よりいっそう苦しみのふちに沈んでいくパタ−ンの方が多いです。それはとりもなおさず、他力の心が非常に根深いことを示しています。それも心を見ていなければ分からない、要するに、心を見ていない方、見ようとしない方は何にも分かりません。
 意識の世界、真実の世界とはそういう世界です。心を見ていけば、いかに己がそびえ立ち、いかに愚かな自分であったか、そんなことは一目瞭然に分かります。
 そびえ立っている自分も愚かな自分も認めようとしなくて、幸せが喜びが分かるはずもありません。また、そびえ立っている人ほど、愚かな人ほど、今という時間がどれほど大切で、ありがたいかが分からない、だからいつまでもそびえ立っているし、どこまでも愚かだということでしょう。


 私は地獄の奥底から這い上がってきたという現実を知っている、一方はそこまでは知らない、その差です。だからいつまでもどこまでも暢気なんです。少し心を見て少し感じてそれでストップです。そこで人によっては、霊能を誇り己を表し、さらに地獄の深みにはまっていく、その繰り返しでした。

 私は地獄の奥底から這い上がってきたという現実を知っている、一方はそこまでは知らない、その差です。だからいつまでもどこまでも暢気なんです。少し心を見て少し感じてそれでストップです。そこで人によっては、霊能を誇り己を表し、さらに地獄の深みにはまっていく、その繰り返しでした。きっとセミナ−後、そういうことはあるだろうし、そういうところに人の輪ができるでしょう。それは段々に顕著になってきます。
 そして、もしあなたが気付かないうちにその渦に巻き込まれたら最後、さてその修復にいったいどのくらいの時を必要とするでしょうか。言葉ではない、態度でもない、波動だと言っても、その肝心の波動が分からなければ、結局はそういうものにごまかされてしまいます。
 アルバ−ト、温もり、優しさ、広がり、250年後、次元移行、喜び、幸せ等々、そういう文言を並べ、あるいは口からスラスラ出てくれば、もうそれで大丈夫、私達はアルバ−トの道をともに歩いていっている、歩いていきましょうとやっているうちに、お粗末な末路を迎えるかもしれません。せっかく、セミナ−という時間、空間をもらいながら、ということにならないように、自分の中で心を見るという実践を真剣に重ねていくことしかないと思います。しかし、心癖ですから、余程の決意がなければ、一直線に行くには困難を極めると添えておきます。


 肉の自分ひとりのために生きる人生から、たくさんの私のために生きる人生へ、思いの基盤が変わりました。その基盤から自分を眺めると、こんなに間違い続けてきたのに、このようにしてまた今世の時間を自分に用意してきたことがただ嬉しいだけです。

 肉の自分ひとりのために生きる人生から、たくさんの私のために生きる人生へ、思いの基盤が変わりました。その基盤から自分を眺めると、こんなに間違い続けてきたのに、このようにしてまた今世の時間を自分に用意してきたことがただ嬉しいだけです。ずっとずっと遠い遠い深いところから、ありがとう、ありがとうと続いていることを感じます。自分に自分がありがとうと言っている、ありがとう、ありがとうと言っている、その優しさは、ああ本当に言葉にならないものです。
 肉の表面では多少の揺れはあっても、それはただ揺れているだけであって、タイケトメキチに心を向け、アルバ−トに心を合わせていれば間違いないことを伝えてくれるから、その揺れは表面だけで収まっていきます。その心の声を信じられることが幸せだと思います。
 私は、肉で何も望むものはありません。すべてがシナリオ通りに遂行されていき、その過程で必要なものはきちんと整えられていくことを心は感じているからでしょう。意識の流れを感じる、その流れは厳然としてあることを感じている、だから幸せと喜びは揺らぎようもありません。そして、これからの250年、300年はすごいとしか言えません。どうぞ基盤を変えていってください。変えない限り絶対に分からないことを分かってください。


 出会いと目覚めの事前準備を経て、250年後に向けて粛々と計画を遂行中です。この流れは絶対なる流れです。流れに逆流するものは自然陶汰されていきます。それは様々な現象を通して、これから人類が体験していくことです。

 私は波動、その波動の世界の私が今こうして肉を持っています。それが確かな思いとして肉にも響いています。だから、肉の意味も肉の大切さも肉の愚かさも、みんなみんな心で知ることとなりました。
 私は、その再確認のために250年後に肉を持ってきます。必要だから生まれてくるのです。意識の世界はすべてがそうです。必要だからそこに形となって現れてくるということです。そして、約50年をかけて、もう形が必要でない次元へ移行していく計画があります。私達はその計画のもとに、今世出会わせていただきました。
 出会いと目覚めの事前準備を経て、250年後に向けて粛々と計画を遂行中です。この流れは絶対なる流れです。流れに逆流するものは自然淘汰されていきます。それは様々な現象を通して、これから人類が体験していくことです。
 私はそのことを心で感じています。だから250年後の来世が設定してくる環境、肉もその流れに適合するものです。その環境、その肉を通して、今世の目覚めを呼び覚まし、爆発的な喜びのエネルギ−を噴出する運びとなっています。250年後は今で言うアルバ−トという意識が肉を持つ時です。この意味が分かりますか。もう私の中はその時を今か今かと待ち侘びています。


 自分のエネルギーが外に向いているか、内に向いているか、それがポイント、それぞれの行き先を決めていきます。自らが自分の行き先を決めて突き進んでいくだけです。

 いつ、自分と対峙するか、できるかということでしょう。十二分に学べるチャンスに恵まれてきた私達です。もうあとはそれぞれ次第です。自分の心を見ていけば、分かるようになっています。だからセミナ−も終了です。ちょうどいい頃合、潮時だと私は思います。一抹の寂しさはありますが、それよりもはるかにありがとうございましたの思いが強いです。
 間違いに気付くこと、気付いていったなら、ただただ嬉しいだけで、まず出てくるのは、お母さんありがとうの思いです。無条件に何の違和感もなく、その思いが心から沸いてきます。温もりと優しさの中にある自分自身を感じれば、それを超えて望むものなんて何もありません。
 目を開ければ、あれもこれも飛び込んでくる、食指が動くと思いがちですが、本当にそうですか。そんなものとは比べることなどできない、全く次元の違う世界をあなた自身も垣間見られたはずです。ほんの瞬間的に、あるいは、ほんの少しでも感じられた波動の世界を大切に、そして、それを自分の中の支えとしてやっていこうとする真摯さがあれば、その思いが自分自身を引っ張っていきます。自分のエネルギ−が外に向いているか、内に向いているか、それがポイント、それぞれの行き先を決めていきます。自らが自分の行き先を決めて突き進んでいくだけです。そこには何もありません、誰もいません。ただ自分の思いがあるだけです。


 地獄の奥底からの叫びを心で感じていける優しいあなたに出会ってください。優しいあなたに出会ったなら、さらにもっと奥底の自分を知っていくはずです。奥底を知れば知るほど、愛しくなってきます。自分を疎ましく嫌っていた自分自身は、自分の中の優しさと温もりに包み込まれていきます。

 3億6千年の心癖は、そう簡単に修正することはできませんが、だからと言ってさじを投げて、自分を見限っていくこともできません。できないから、生まれてきたのです。そして、セミナ−に集い、これからの時間を用意してきたのです。
 心を見ることを通して、そういう心からの思いに触れていってください。地獄の奥底からの叫びを心で感じていける優しいあなたに出会ってください。優しいあなたに出会ったなら、さらにもっと奥底の自分を知っていくはずです。奥底を知れば知るほど、愛しくなってきます。自分を疎ましく嫌っていた自分自身は、自分の中の優しさと温もりに包み込まれていきます。温もりとか優しさ、広がりの自分自身を感じていけば、自分を見限っていこうとしてきたその思いが、どれだけ愚劣であり、冷酷であったか、もうそこには自分に対する懺悔しかないでしょう。そして、待ち続けてくれていた自分に対して、ありがとうございますの思いだけです。
 心を見るということによって、そのような素晴らしい出会いがあるのです。地獄の奥底の自分との出会い、そして本当の自分との出会い、それがアルバ−トの世界です。いつまでも偽物の自分を振りかざしていないで、本当の自分に出会えるように、日々を重ねていってください。


 「意識の流れーアルバートとともにー」、あるいはホームページを拒否したり、見下していては、どんなに喜び、幸せを感じている、これこそ本当の世界だと言っても、それは全く違う世界のことなんです。

 セミナ−は進化しました。その中心事項は変わっていませんが、セミナ−は成長してきました。その過程にあったもの、例えば当時の書物、冊子、チャネリングを記録したテ−プ、ビデオ等々、それらはその当時は必要でした。しかし、今現在もそうですが、これからは、「意識の流れ―アルバ−トとともに―」と、ホ−ムペ−ジすなわち「核からのメッセ−ジ」あるいは7月1日から始まるホ−ムペ−ジ、これだけです。ともに成長されてきた方なら分かります。以前のものをどうこう言うのではなく、今は必要でなくなった、もうそこからずっと進化しているというだけです。だからそこにこだわっていたり、つかんでいたりしていては、その人はその時点で留まっています。その違いが分からない、すなわち次元が違うことが分からないのです。
 本当は、セミナ−とともにみんなが成長できればベストでしたが、己偉しの心癖が障壁となってなかなかです。「意識の流れ―アルバ−トとともに―」、あるいはホ−ムペ−ジを拒否したり、見下していては、どんなに喜び、幸せを感じている、これこそ本当の世界だと言っても、それは全く違う世界のことなんです。拒否したり、馬鹿にしていては、アルバ−トは分かりません。それははっきりしています。そういうものを無視してアルバ−トは分からないと伝えています。


 己という壁を外さなければ、波動の世界は分かるはずがないのです。堅固な壁で遮って感じている世界とは、いったいどのような世界なのでしょうか。きっとその世界は、あちらでもこちらでも、己が乱立している世界なのでしょう。だから一番が出てきます。特別が出てきます。我に従えが出てきます。

 己という壁を外さなければ、波動の世界は分かるはずがないのです。堅固な壁で遮って感じている世界とは、いったいどのような世界なのでしょうか。きっとその世界は、あちらでもこちらでも、己が乱立している世界なのでしょう。だから一番が出てきます。特別が出てきます。我に従えが出てきます。もちろん、言葉はアルバ−ト、温もり、幸せ、喜び、広がりです。しかし、波動は己の色濃きブラックです。その違いを、どうぞご自分の心で学んでくださいというのが、波動の勉強の主眼でした。
 真実の波動の世界を自分の心で見極める、これはただひたすらに、自分自身と素直に真摯に向き合っていくことに尽きるのです。そして、それは永遠に続いていくものです。果てしなく広がり続いていく波動の世界に、それなりに感じている、分かっている、出来上がってきた、その私を認めなさいということなどあり得ません。
 心を見ていれば分かります。その思いが出てくれば、己という世界を保持したままで感じている他力の世界に過ぎません。そのことを自分自身で認めていくこと、己という壁を外すこと、そういう素直さを欠いていれば難しいと思います。


 これから、それぞれの実践の中で、実践を通して、「意識の流れーアルバートとともにー」とホームページで伝えられてきたことが、心で分かるだろうと思います。そこに流れるものを読み取るには、まだ時間が必要であると私は感じています。しかし、このふたつがセミナー後のあなた自身にきっとお役に立てる日がやってくるだろうと思っています。

 これからですね。これから、それぞれの実践の中で、実践を通して、「意識の流れ―アルバ−トとともに―」とホ−ムペ−ジで伝えられてきたことが、心で分かるだろうと思います。そこに流れるものを読み取るには、まだ時間が必要であると私は感じています。
 しかし、このふたつがセミナ−後のあなた自身にきっとお役に立てる日がやってくるだろうと思っています。真剣に自分と向かい合ったならば、どんどんそこから伝わってくるものを感じていくでしょう。いわゆる波動の世界を感じていくと思います。ただの文字の羅列ではなかった、どれほどのことを伝えてもらっていたか、しみじみ感じる時がやって来るのではないでしょうか。そのときは分からなかったことも、受け入れられなかったことも、軽く見てきたことも、全く見当違いだったことが、あなた自身の心に響いてくると思います。
 そうしながら、私はそれぞれがそれぞれの来世に繋いでいける今世であればいいと思うだけです。そして、250年後の出会いを待ち望んでいるだけです。ただし、来世に繋ぐということがなければ、250年後はないでしょう。今世という時間は、私達にとって非常に大切な時間だということが、これでお分かりでしょうか。


 私は自分の望み通りの人生を歩いています。お金も名誉も何も要らない、私が欲しかったものはそんなものではありませんでした。そんなもので得られるものと、私が心から望んできたものとは違う、それははっきりしていました。

 肉の時間は、自分に自分が与えた大切な時間です。それを痛切に感じた今世です。
 誰にも何にも左右されない悔いのない人生を、この思いをずっと持ち続けてきました。しかし、この思いはどこから来るのか、なぜそう思うのか、悔いのない人生とは何なのか、そう考えながらも、形の世界だけしか知らなかった私には、答えが出るはずがありませんでした。それでも、中は必死だったのでしょう。どこかにたったひとつ真実はあるという思いが、学びに集うずっと以前からありました。だから目の前に、形の世界の出来事が起こってきても、ああこれではない、これとは違うと何かそういうものに乗り切れない自分自身を感じていたのです。
 形の世界に肉として生きていた今世の時間から、ようやく肉をセミナ−会場に運ぶことができ、自分自身の疑問にも答えを見出すことができました。どこかに必ず真実はあるという心の声にも今は納得です。やはりその通りでした。
 私は自分の望み通りの人生を歩いています。お金も名誉も何も要らない、私が欲しかったものはそんなものではありませんでした。そんなもので得られるものと、私が心から望んできたものとは違う、それははっきりしていました。


 はい、目を閉じて3回丹田呼吸をして、肉の田池留吉を思いました。

 はい、目を閉じて3回丹田呼吸をして、肉の田池留吉を思いました。肉はすっと肉の田池留吉を思い浮かべました。瞬間、肉はなく心の底から上がってくるものは、異語とともにアルバ−トでした。瞬間にブワっと湧いて出てくるものです。私にとって、肉の田池留吉とはそういうものです。私には瞬間的にアルバ−トなんです。肉を見ているようで見ていない、私自身もこの肉などあるようでない、そんな世界です。


 もう本当に気付かなければならない時がやってきているのです。肉を持たなければ、その愚かさにも気付けないというほどに堕落してしまった私達でした。その愚かな自分達の世界が、さらに目の前に展開していきます。

 肉を持つことで、意識の世界、すなわち自分がいる世界を感じることはできますが、肉がなくなってしまうとずっとその意識というものは底に沈んでいってしまいます。そして、再び肉を持ってくるのです。なぜ生まれてきたのか、自分というものは何なのか、なぜ人は働きあるいは家庭を築くのか、何のためにそういう人間関係を構築していくのか、肉を持っている間に、このことを自分に問いかけ、そして自分から明確な答えが返ってくるまで、肉を持ち肉を捨てていくことを続けます。ご存知のように、その転生は苦しみです。時とともに消え去るものばかりをつかもうとして苦しみ続けます。自分というものを知らないから、それに気付くまでやり続けます。それほど真実より遠くにかけ離れてしまいました。
 確かに、形の世界において、人は一人では生活できません。肉を維持していくには、様々な方の手を煩わせています。文明社会に慣れ親しんだ私達には、もはや自給自足の生活など不可能です。しかし、人間はそれ以上に、自然秩序を乱しながら、自分達の幸福と繁栄のみを追及してきたのです。
 もう本当に気付かなければならない時がやってきているのです。肉を持たなければ、その愚かさにも気付けないというほどに堕落してしまった私達でした。その愚かな自分達の世界が、さらに目の前に展開していきます。そこから浮上していくか、さらに深みにはまっていくか、それはそれぞれの選択に任せられています。


 真っ黒の中では、何をどうしたって、所詮は真っ黒です。互いに知恵を出し合い、励まし合って慰め合って、勇気付けがあっても、それではどうにもならないどん底を、味わうことになると思います。

 狂った意識がどんどん形となって現れてきます。すでに真っ暗な中に突入していますから、これからますます訳の分からない現象が、目に耳に飛び込んできます。その原因やら、なぜそういうことになってしまったのかという解明がなされていき、一応はその原因らしきものに突き当たるでしょうが、しかし意識の世界までは分からないから、それも結局はほんの上っ面のところで終わってしまいます。すべては意識の世界から発せられていることであり、そこに蠢くエネルギ−が働いた結果であり、真っ黒な無知とエゴと欲のエネルギ−のなせることだと、気付くには至りません。
 確かに、何かが起きると、事態改善のためにみんな一生懸命だと思います。いい方向に行くようにと議論を重ね、鋭意努力をしていくでしょうが、自分達が流してきた思いの結果であることに到達するには、まだまだ時間を必要とします。
 真っ黒の中では、何をどうしたって、所詮は真っ黒です。互いに知恵を出し合い、励まし合って慰め合って、勇気付けがあっても、それではどうにもならないどん底を、味わうことになると思います。
 それぞれがそれぞれの中で、すでにどん底を味わってきたはずですが、まだまだ懲りない、それがこれからはっきりと現象化していきます。


 どの方も必ず、転機があります。それを活かせるかどうかだけです。

 2000年、2001年とパソコンに打ち続けていたものを読み返しました。当時、私は父の病気と死という現象の中にありました。学びに集ってから6年あまりの準備期間を経て、私はようやくここから出発したのでした。2001年は私には色々な意味で本当に大切な転機の年でした。
 どの方も必ず、転機があります。それを活かせるかどうかだけです。当時、日々打ち続けていた文章を目で追う自分の心に響いてくるものは、自分で自分に問いかけ、自分で自分に答えていっている、その優しさと温もりでした。どんな思いを投げかけても、それに答えてくれるものは、信じて待ってくれている優しさと温もりでした。それは、私の原点はここにあったことを、何度も何度も心に呼び起こしてくれるものでした。
 私の中に真実を真摯に求めていく思いがあったからこそ、現象を通して、自分の間違いにどんどん気付いていきました。躓きかけたこともありましたが、それが大怪我にならずにすんだのも、自分の中に何にも代えがたい思いが息づいていたからだと思います。
 人はなぜ生まれ、なぜ死んでいくのか、このことを真正面からとらえてこそ、真実が見えてくるのではないでしょうか。そのことを、セミナ−開催と並行して、実体験を通して学ばせてもらったことに大きな意味がありました。私はセミナ−とともに成長させていただいたのでした。今、私の中には、父よ、母よ、そして田池留吉よ、ありがとうございます、その思いしかありません。

 本当にそう思う、自分の思いをこうしてワープロで打ち、自分に語っている、そして自分の中に解答がある、こうしていかなければ自分の心の中を信じていくことは出来なかったと思います。自分が自分に語り、すべての解答は自分の中にある、改めて今日の核のメッセージでそうだったと納得しました。誰に向けて思いを出しているのか、最初は田池留吉の肉に向けて、心の中は認めてくれです。そんな思いでどんなに語っても、こんなにわかった自分がいるんだから認めよ、その枠の中から一歩も踏み出せない、踏み出していない、他力のエネルギーの渦の中ですばらしい自分を表していく、まさにアルバートとは全くかけ離れた世界にいました。今、そのことがはっきりと心でわかります。自分を信じるということ、そしてなぜ生まれて、なぜ死んでいくのか、そのことがとても大切なキーポイントですね。そうでした。本当にそうでした。死というものを真摯にとらえて、そこから物事を眺めれば、肉のことは死を境に消えていく、残るのは執着と孤独と空しさ、怒り、呪い、本当に凄いエネルギーの渦です。その中に埋没していくだけなんですね。気付かねば肉でどんなに平和で楽しく暮らしいていても現実はその世界です。このことが心でわかるまで今までの時間が必要、一つも無駄はなかった、そう思える今、心から出てくるもの、自分にありがとう、おかあさん、ありがとう、それだけです。心の中に存在する本当の自分、アルバート、タイケトメキチ、大切に、大切にしていきます。


 生きる姿勢を根本的に変えなければ、本当のことは分かりません。今私達が学んでいることはそんなに容易いものではないはずです。根こそぎ、自分の中を見直し、全部入れ替えなければ分からないことです。だからこれからの転生が用意されているのでしょう。

 生きる姿勢を根本的に変えなければ、本当のことは分かりません。今私達が学んでいることはそんなに容易いものではないはずです。根こそぎ、自分の中を見直し、全部入れ替えなければ分からないことです。私はそう思っています。だからこれからの転生が用意されているのでしょう。本当のことは、それぞれが自分自身の体験を通して、自分で気付いていく以外に分からないと思います。自分の中で苦しみ悩み狂いながら、自分の中で答えを出していく、これだけでしょう。その過程で、肉は欲だから、様々な情報を得ようとしますが、それは聞いているようで実は聞いていない、自分の中でああそうだったと気付くまで、そんなものは右から左へと通過させているだけです。自分で気付いてこそ、自分のものになっていくのであって、それ以外は、たとえ本当のことに出会っていても、そのときはその人には無用の長物でしかありません。
 みんな己が偉いです。己偉しを捨て切れないなら、最後までそれを通してください。あえて困難な中に飛び込んで、あえぎ苦しみのた打ち回って、そこから何かに気付いていくかもしれませんし、そうでないかもしれません。毒を食らわば皿までもではないですが、行き着くところまで行かないと、見えてこないということもあります。

 あまりにも己偉い私でした。己があると、真実はわかりません。本当の自分というものがまったく分かりません。意識の流れを読んでいても、上からしか向かえませんでした。すべてを崩して行かなくてはなりません。
 己が薄れ、己が崩れていけばいくほど、意識の世界が伝わってきます。そこには想像を絶する喜びの芽が芽生えてくれています。こんなにも喜びの世界が私の心の中にありました。苦しみは喜びでした。大きな苦しみを思えば思うほど、大きな喜びを伝えてきます。
 下呂セミナーに思いを向ければ、喜びの大爆発です。怒濤の如く喜びの波が迫ってきます。崩れていく、誇ってきた全てが崩れていく、この流れはもうとめられません。これが今、心の中で起きている現実でした。
 アルバートと共に、何という喜びの人生でしょうか。苦しみが今、喜びの火山爆発です。



 お金はある、名誉はある、家族もあるし仲間もいる、健康だ、しかしアルバートがないから、ある日突然言われようもない空虚さが襲ってきます。または、じわじわと心を覆い尽くしていきます。

 私は自分を追求する手を緩めません。追求するというのは、ひたすら自分と向かい合って、常に自分に問いかけをするということです。いつもアルバ−トを思い、心を縛るとか自分を律するとかではなく、自由な私を楽しむということです。幸いなことに、私にはまだその肉の時間があるようだし、これまた幸いなことに、自分の中でその問いかけをする術を心得ているし、その楽しみも喜びも知っています。
 何のための人生か、はっと我が人生を振り返ったとき、この思いがどどっと押し寄せてくる晩年ほど、哀れで気の毒なものはないと思われます。世間が評価しても、自分を欺いて、ごまかしての自分なんて、自分自身は評価できません。
 お金はある、名誉はある、家族もあるし仲間もいる、健康だ、しかしアルバ−トがないから、ある日突然言われようもない空虚さが襲ってきます。または、じわじわと心を覆い尽くしていきます。
 アルバ−トがない人生なんて人生でないと心は叫んでいるけれど、その声は今世も届くことなく、ほとんどの方が肉の人生を閉じていってしまうのかと思うとき、やはり私の今の肉の時間はしみじみ幸せだと思います。


 6月のUTA会セミナーで、今世のセミナーの区切りをつけられる事を嬉しく思っています。

 6月のUTA会セミナ−で、今世のセミナ−の区切りをつけられることを嬉しく思っています。喜びの中で、250年後へ引き継いでいくことができるセミナ−を最後までともにできますことが、私には喜びです。こうして肉を持ち、このような素晴らしい時間と空間を持たせてもらったことに思いを馳せれば、もう何も言うことはありません。
 9月から3回催されるセミナ−は、これまで約20年続いてきたセミナ−とは、その趣が違います。原則は、すべてに平等に公平にその門戸は開かれているということですが、それを大義名分にいつまでも他力、他力ではどうかと思います。まだ今年はセミナ−があると高をくくっておられる方もあるかもしれませんが、それは全く見当違いです。
 その3回のセミナ−は、「意識の流れ―アルバ−トとともに―」の本が出版されたことを記念して開催されるものです。当然、本を読み、何かをそこから感じ取り、心新たに喜び、喜びで進められていくセミナ−になります。その趣旨にご賛同できない方はご遠慮ください。そういうことを念頭に置きつつ、3日後の下呂セミナ−に足を運んでください。喜び、喜びながら、しかし気持ちを引き締めて集ってください。

 私には20年の年月が必要でした。とてもとても忙しい時間でした。私の過去世を含めて全部の心の時間が今世のように感じます。
 荷造りしながら、そのセミナーも最後になるのかと思うと涙が溢れてきます、これまで私の人生の時間の中でこんなに一生懸命になれたものがあっただろうか。自分自身と戦いながら、田池留吉と戦いながら生きてきた時間でした、田池留吉を捉えようとしてきました、捉えようとすればするほど憎しみが恨みが呪いが膨れあがってきました。
 田池留吉は私の中にありました、私とともにありました。私の目の前にある肉の田池留吉を掴まえようとすればするほどに苦しみが襲ってきました。田池留吉は大きかった、得体の知れないものでした。決して分かることの出来ないものでした。それでも私には田池留吉に向かって行くしか方法がありません。私には何を於いてもまずセミナーであり、田池留吉でした。頭から離れることはありませんでした。確かに間違った道を歩いて来たことには間違いはありません。それはそれは苦しかった心が証明してくれました。
 今田池留吉のホームページを開くと心に感じてくるものがあります、その瞬間が私には宝です。そして「意識の流れ」を読む、溢れる波動の世界は例えようもありません。一文字一文字が浮き出てくる、こんな世界があったのか、あったのですね。アルバートの世界に生きることの素晴らしさを私は最後に最後に教えて頂きました、掛け替えのない私があることを教えていただきました。
 沢山の過去を抱いての今世、私の中からもう全員が総出でありがとうございましたの声が聞こてきます。

 最後のセミナー・・・本当に最後なんですね。仲間の方のメッセージが心に響きます。私にとってもまずセミナーあっての日々でした。色々なことがありました。ぜんぶぜんぶ、何ものにも替えがたい経験、体験の数々でした。
 でも私の心の中は自分でも不思議なほど淡々と最後のセミナーを迎えようとしています。以前はセミナーが終了するなんて考えられない、どうしようと思っている私でした。そんな自分が嘘のようです。アルバートしかない、そう思える今の自分がとても嬉しいです。田池留吉を肉で見ている間は分からなかった意識の世界が、今では信じられます。幸せです。幸せは私の心の中にありました。真実は、肉を掴んでいては決して感じられないことを学んできた20年でした。本当に本当にありがとうございました。
 いよいよセミナー後の私が試されます。250年後にしっかりと繋いでいけるこれからでありたいと思っています。

 嬉しいです。ただただ嬉しいです。この一言から始まります。
 それに続いて、アルバートありがとう、田池留吉ありがとう、お母さんありがとう、本当の自分ありがとう、もう嬉しくて何も言うことはありません。
 そして自分は喜びでした、嬉しい、幸せ、喜びでした、と心から幸せを感じるのがとてもうれしいのです。
 思えばよくもここまで持ったものだとつくづく思います。本当に抵抗、暴走、苦難、己高し、己一番、数えればきりのない私の姿でした。
 何ひとつまともなものはありませんでした。このことが自分に分かっただけでも、20年間学んだ価値がありました。学ばなかったらその結果はどんなものであったか、思うだけでもぞっとします。
 気付けたことだけで私は充分と感謝しています。学べたことだけでも満足です。母親に感謝できたこと、母親のとてつもない、優しさとぬくもりを知ったことだけで私は充分です。
 それと肉の田池留吉の優しさと温もりを知りました。感じました。その暖かさと温もりを大事にしていきます。
 私の残された人生をこれからこの思いで生きていけるのが楽しみです。本当に嬉しいです。



 心で感じる喜びと幸せは現実のものです。今世、セミナーという場を持たせてもらって、波動の世界の現実を心で確認させてもらったことは、どんなに言葉を尽くしても言い尽くせない、この思いを表現する言葉は見つかりません。

 250年後への確かな足取りを感じています。どこかでプツリと切れることはない確かな道筋です。その道筋は私の中で250年後へ続いています。アルバ−トに心を向ければ、それが心にはっきりと浮かび上がってきます。嬉しいね、嬉しいね、ありがとう、ありがとう、250年へ至る道は私にとって喜びです。そして待望の再会の時間をいただき、ともに生きる喜びと幸せを享受できるのです。
 心で感じる喜びと幸せは現実のものです。今世、セミナ−という場を持たせてもらって、波動の世界の現実を心で確認させてもらったことは、どんなに言葉を尽くしても言い尽くせない、この思いを表現する言葉は見つかりません。
 250年後はもうすぐそこまでやって来ています。3億6千年の幕を閉じるにふさわしい舞台設定は、すでに出来上がっています。喜んで、喜んで、私の中の宇宙とともに喜んで、これからの時間を経ていくでしょう。アルバ−ト…、宇宙…、私達はこの広い空間にともに羽ばたいていけることを楽しみに待っています。
 今世、肉を持たせてもらったことを心から喜びとする私がいます。心から喜べたのは、今世が初めてです。来世はもっとすごい、それもまた楽しみに待つだけです。


 肉を持たなければ、私の中に眠っていた世界を目覚めさせることはできませんでした。その目覚めがあったから、肉を持つ苦しみから肉を持てた喜びへと、変わっていくことができたのです。

 すべては意識の流れの中にあります。そして、そこに心を合わせるだけです。合わせば分かります。心で感じているか否か、感じていれば何の言葉も要らない、説明も要らない、アルバ−トが現実、それだけです。もうセミナ−はそういう次元です。
 約20年の今世のセミナ−の締めくくりが、明日からの下呂セミナ−となるのでしょう。そして、それから250年後へ引き継いでいくかは、それぞれです。私自身の思いの中に何の気負いもありません。私は、この時を迎えられて嬉しいだけです。そして、これから思うとき、もう喜びが沸き起こってくるだけです。この喜びを皆さんと共有できることが嬉しいです。
 アルバ−トに出会うために、今世生まれてきた私には、これほど幸せなときはありません。宇宙が広がっていく、私の中で宇宙が広がっていく喜びを存分に味あわせてもらいました。
 頭では決して推し量れないこの現実です。しかし、肉を持たなければ、私の中に眠っていた世界を目覚めさせることはできませんでした。その目覚めがあったから、肉を持つ苦しみから肉を持てた喜びへと、変わっていくことができたのです。


 今回で、今世のセミナーは締めくくりを迎えました。これからは、それぞれの環境のもとで、それぞれが今世の締めくくりをしていきます。自己選択、自己責任です。

 たくさんの喜びをありがとうございました。
 たくさんの気付きをありがとうございました。
 私は幸せです。私は喜びです。今世このような時間と空間を持たせてもらったことに、ただもうありがとうございましたしかありません。
 アルバ−トの波動を知る、アルバ−トの世界を知ることがどれほどの喜びであり、幸せであるか、最後の瞑想は圧巻でした。アルバ−トと一斉に叫ぶ私の中の意識達、すなわち私自身でした。両腕にジンジンと伝わってくるその波動はすごかったです。何と幸せなことか、本当にたくさんの幸せと喜びをありがとうございました。
 今回で、今世のセミナ−は締めくくりを迎えました。これからは、それぞれの環境のもとで、それぞれが今世の締めくくりをしていきます。自己選択、自己責任です。



         ★ あなたにとって人生とは何でしょうか。

         あなたは、なぜ生まれてきたのですか。
         あなたは、どうして今そこにいるのですか。
         あなたは、本当の自分自身に会いたくありませんか。
         あなたは、このまま死んでいくつもりですか。

         そびえ立っていませんか。己偉し、己高しの世界にいる限り
         絶対に喜び幸せの世界、真実の世界は分かりません。


こころの歌     65   花かげ   作詞 大村主計  作曲 豊田義一
           66   霞か雲か   作詞 加部厳夫  ドイツ民謡
           67   この広い野原いっぱい   作詞 小園江圭子  作曲 森山良子
           68   はなさかじじい   作詞 石原和三郎  作曲 田村虎蔵
           69   金魚の昼寝   作詞 鹿島鳴秋  作曲 弘田龍太郎
           70   月の砂漠   作詞 加藤まさを  作曲 佐々木すぐる
           71   おつかいありさん   作詞 関根栄一  作曲 団伊玖磨
           72   春の風   作詞 加藤義清  作曲 フォスター
           73   背くらべ   作詞 海野 厚  作曲 中山晋平
           74   川の流れのように   作詞 秋本 康  作曲 見岳 章
           75   コイノボリ   作詞 近藤宮子  作曲者未詳
           76   知床旅情   作詞作曲 森繁久弥
           77   みどりのそよ風   作詞 清水かつら  作曲 草川 信
           78   とんがり帽子   作詞 菊田一夫  作曲 古関裕而
           79   青葉の笛   作詞 大和田建樹  作曲 田村虎蔵
           80   モーツァルトの子守歌   作詞 堀内敬三  作曲 フリース
           81   さつきの歌   作詞 藤浦 洸  作曲 藤山一郎
           82   雨降りお月さん   作詞 野口雨情  作曲 中山晋平
           83   四季の雨   文部省唱歌
           84   雨がさからかさ   作詞 武内俊子  作曲 河村光陽
           85   あしたてんきになあれ   作詞 サトウハチロー  作曲 湯山 昭
           86   夜明けのうた   作詞 岩谷時子  作曲 いずみたく
           87   からすの赤ちゃん    作詞作曲 海沼 實

           私の青春  寮歌


 次のような瞑想をできるだけ試みてください。

 まず目を閉じて3回丹田呼吸をしてください。続いて目を閉じたまま、肉の田池留吉を想ってください。どんな思いがあなたから出てきますか。




私は田池留吉(1926年生)です。

肉から意識へ基盤を転回してください。
「意識の流れ」を読み込んでください。ホームページを開いてください。
アルバートに心を向けてください。アルバートがすべてです。波動が真実です。
私はあなた、あなたは私、ひとつです。
私とともにアルバートの道を進んでいってください。



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