◎ 形の世界と意識の世界
私達の意識の世界が現象化したものが形の世界です。形を通してそこから何かを学んでいくということが、本来の人間の生き方です。ところが、そうではありませんでした。自分達の采配で形の世界をうまく操ろうとして悪戦苦闘してきたのが人類でした。「形の世界は意識の世界が現象化されたものである、初めに意識ありき」と、はっきりと伝えた人はおりませんでした。形の世界の中で真実を侮ってきた人類に、本当の幸せも平和も訪れないことを、知っていかなければなりません。
本末転倒のことを平気で、しかも堂々とやってきた人類の愚かさは、今、声を大にして語らなくても、やがて時がそれを証明してくれます。さあ、その時は大変です、大変な状態を目の当たりにして人類はどのような行動に出るのでしょうか。いくら頭脳を寄せ合って、そして、神を祭り、祈りを捧げても、襲いくるものは容赦なくその勢いを弱めることはありません。一瞬のうちにすべてが消え去っていくのです。
それが私達が書いてきたシナリオです。そのシナリオは、正確に狂うことなく、今、着実に進んでいます。人類よ目覚めなさいと、喜びのエネルギーが天変地異を起こしていくそのシナリオの中の一部が、今世のこの時間です。今、私とあなたがこのように出会わせてもらっている時間です。その中で私は自分の心で感じ、確信しているものを、このように伝えさせてもらっています。私の思いはそれで完結なのです。確かに分かってほしい、分かってくださいという思いはあるものの、それは私の中では苦しみにはなりません。なぜならば、私は私の心で感じている世界が本物であることを知って、喜びだからです。これからどのような時を経て、私達はどうなっていくのか、私は心で感じています。そして、その心で感じている世界だけが私には現実なのです。今、確かに肉の世界に肉を持って存在している私ですが、私の現実はこの肉を取り巻く世界ではないことは明々白々です。どんなに肉の世界の素晴らしさを強調されても、反対に肉の世界の苦しさを訴えられても、そのどちらもがこの大いなる意識の流れの中では取るに足らないことであり、いずれ消えていくものであることを知っています。だから、私の世界は、そんな世界とは無縁です。ただ肉を維持するためにほんの少しかかわっているだけで、後はそういうもので自分の世界が乱されることはなく落ち着いています。日々、喜びで過ごせることが喜び、私はそんな毎日を送っています。
◎ 人間の苦しみと逃避
本当のことが分からなければ、生きることは苦しみで、その苦しみに喘いでいる自分だけしか見えません。そんな自分が嫌で見たくないから自分から目を背け、人は心を外に向ける方法を次から次へと考え出します。心を紛らわせる何かに、はまり込んでいきます。
そして、現実から逃避して無気力に生きていくか、もっと素晴らしい自分になろう、生まれ変わろうと自分に鞭打つか、ただ時を安穏に無事に過ごせることだけを願っていくかという選択肢しかありません。どちらにしても本当の人生の目的から大きくずれた人生を自ら選ぶ結果になっていくのです。そして、その心には新たな苦しみが山積みされていき、自業自得の濁流に押し流される転生を繰り返していきます。
◎ 懺悔と心の目覚め
心を落とし、心を汚し、苦しみ抜いてきた人ほどいいのです。今の今まで間違った方向を向いていても、その次の瞬間真実に目覚めていくというか、間違ってまいりましたと、懺悔の思いが噴き出てきて心が一変することもあり得るのです。
人間というものは本当に愚かですが、また、そういう体験に出会えるかもしれないと思うと、なんて幸せな存在なのだろうかとも思います。
しかし、肉の小さな殻の中に自分の心を閉じ込めたままでは、そんな素晴らしい自分と出会うことは決してありません。肉の殻を突き破り、己の本当の姿を垣間見た瞬間から、今、存在していることそれだけが喜びであり、幸せであるということが心で分かってくるのです。
◎ 心のメッセージと現象の意味
ぜひ一度、あなたの心で始めてみてください。私は嘘は申しません。ただ、あなたはあなたの心を見るということをやっていけばいいのです。そうすれば、どんなにあなた自身が愛され許されてきたかが、あなたの心に響いてくる日が必ずやってくるでしょう。それはあなたの身体、あなたの家族、あなたの人間関係、あなたの仕事等々、あなたを取り巻く環境を通して、あなたに伝えてくれるようになっています。
それらはみんなあなたに対するメッセージです。そして、形で言えば不都合なことかもしれません。それはそうでしょう、調子よく思い通りに事が運んでいては、誰も立ち止まって自分を振り返ることはしません。それでは間違った道をさらにどんどん進み、さらに膨大な闇を垂れ流し、そして、それがまた自分に返ってくるという循環の中から決して抜け出せません。
そしてまた、たとえ振り返る時があっても、心を見るということを知らなくては、肉で何とかしよう、形を修復しようということだけで終わってしまいます。後は自分の心を納得させる尤もらしい理由を並べて、その場その場を切り抜けていくだけです。それでは自分をごまかして、自分を偽って、自分を抑え込んでいく結果に終わるだけで、今までと何ら変わることはありません。たとえ、形は修復され以前よりよくなっても、自分を偽って生きていくその心は変わらないのです。それではあまりにも自分がかわいそうだと思いませんか。そこで心を見るということを知っていたならば、同じ現象に出会っていっても、きっとその現象により一味違った自分を見るというか、自分の成長が感じられるのではないでしょうか。
◎ 苦労と成長の本質
世間の荒波に揉まれて人は成長するのではありません。確かに人それぞれに苦労はあると思いますが、その苦労が、本当にその人にとって肥やしとなっていくのは、その人が心を見られた時です。今までの現象が、みんな自分には本当に必要なことであったと心から実感された時、初めて苦労が苦労でなかったということが感じられてくるのです。今、自分がここにこうして存在していることが、ただただ嬉しい、ふつふつと喜びが心に起こってきます。色々なことはあったけれども、それはこの幸せを心で感じ入るためのものであったと、心の底から思えてくるのです。自分の内面から本来人間の持つ智恵と勇気、賢さが溢れてくるということが分かってくると思います。そして、そうなってくれば自分の心の中には大いなるパワーが存在するのだということも、また、はっきりと感じられてくると思います。
◎ 自己責任と心の気付き
どんな場合においても自分で選んで、自分で決めて、そして、その結果をまた自分が受けていく、これが大原則です。しかし、選んで決めても結果を受けられない、すなわち、責任をみんな転嫁していくのが今現在の私達の現実の姿だと、私は思っています。
世間並みに生きてきた私であるのに何でこんな目に遭うのか、それはきっとあのせいだ、これが原因かと、決して己が使ってきた思いというものに心を向けません。正しい自分が中心にあるから、まさか自分が間違っているなんて絶対思えないのです。そういう方にとっては、自分を崩すということは大変なことです。我を張って生きてきて、これが私だという思いがこびりついてしまっている人に向かって、あなたが間違っていますよと真正面から言っても、それは拒否されるだけです。やはり、その人はその人に与えられた時間、空間の中で、自分で気付いていくということしかありません。
しかし、真実はひとつであり、みんな真実を求めて存在し続けてきたわけですから、どれだけ頑固で強情な意識であろうとも、いつの日にか真実に到達することでしょう。それは何十億年、何百億年かかるかもしれません。そして、心で気付くまで、その方の地獄は続いていくということです。
◎ 愛の呼びかけ
すべては愛の中でなされていることなのです。愛がすべての意識達に呼びかけているのです。意識達は今まさに目覚めようとしています。肉が自分だと思っている思いだけが、目覚めを妨げているということです。それは、どこまでもどこまでもそびえ立つ己という思いです。
肉の人生を生きていくには確かに己を主張し、賢く立ち回ることは必要かもしれません。そうでなければ、肉のあなたは淘汰されていくかもしれません。しかし、それはそれでまたよしではありませんか。あまり、そういうところにこだわって戦々恐々とするよりも、流れに逆らわない、自然に悠然と流れていくことが大切です。そうすれば、おのずとあなたの道は開けてきます。悠久の過去より悠久の未来へと続いていくあなたの時間の中の今、というふうに自分をとらえてみてください。もう少し自分というものを大きく眺めてみてください。肉のあなたが淘汰されても、あなたの本質は何ら変わることはありません。しかし、価値基準が肉にあれば、そういうことは分からないでしょう。ひとつのコース、あるいは、ひとつのレールから外れていくことは、人生の敗北者だという思いを抱いておられるからです。それがそもそも間違いであり、何も分かっておられないということなのです。
◎ 真実への道と心を見ること
人にはそれぞれ道があります。本来はそれが真実へと続いていく道なのですが、肉を信じている人達は、いまだ道見えず、道遠し、その中で、もがき苦しんでいます。
また、真実へ続く道を見つけるのにエリートであるとかそうでないとか、何も関係がありません。ただ、その方が心を見ているか見ていないか、心を見るということを知っておられるかそうでないか、それによって道は大きく別れてきます。だから、あなたがどのような状況にあろうとも、今、自分の心を見るということを知っておられたならば、あなたは幸せです。後は、ただ自分の心を見るということを重ねていくだけです。やがて、あなたの中からの真実への叫びが、あなたの肉を動かしていくでしょう。それが自分に素直に生きるということだと、自分で分かってきます。
◎ 心の在り方と自然な生き方
私達は全く逆に肉というものをとらえてきたのです。肉がすべてを牛耳っていくのではありません。中からの促しで肉は突き動かされているだけなのです。だから、中をきちんとしていれば、あなたが生きていく上で、その肉を維持するのに必要なものは、すべてあなたの手中に入るということです。あくせく心忙しく身体を酷使して幸せになろうとしなくても、心をしっかりと管理していれば、悠々と人生を過ごしていけるようになっています。それだけのものを自分自身は、みんな用意してきたということでしょう。その中で喜んでいけばいいだけであり、苦しんだり、嘆いたり、悩んだりするのが、もうすでに自然から遠くにあるのです。本来の人間のあり方を全部忘れ去ってしまったということです。
◎ 苦しみから解放される道
当然、本来のあり方から大きくずれた分、心には苦しみが起こってきます。間違って存在しているから、その修正がなされていくのは当たり前のことです。そのために肉をもらってくるのです。だから、生まれてくるということは大変なことなのです。
それを知らずに転生を繰り返してきたのですから、今世を含め、過去は苦しみの連続でした。間違い続けてきた過去ともども、すべてが喜びへとようやく帰っていける道筋を、あなたは初めて肉を持って知ったということです。私はこんな嬉しいことはないと思います。そんな悠久の流れを心でしみじみ感じながら、あなたもあなたの人生を歩いてみませんか。自分というものを、もっと知っていく時間をできるだけ持たれたらいいと思います。ゆったりとあなたを生んでくれたお母さんを思ってみてください。できれば、軽く目を閉じて、母を思う時間を過ごされたらと思います。
◎ 母を思う瞑想
そこで、この母を思う瞑想ということで少し話をさせてもらいます。
あなたを生んでくださったお母さんは、あなたと同様その肉は愚かです。愚かなことを言ったりしたりします。それはそれで、あなたが心を見ていく上であなたにとって必要だから、お母さんはその肉を通して演じてくれています。だから、そのひとつひとつをつかまえて、ああだこうだと言っても仕方がないことです。それよりも、その母親の肉を通して、あなた自身の心が引き出されてくるわけですから、その思いをノートに書き出すなどして、しっかりと心を見つめていけばいいのです。そして、ある程度までくれば、後はその書き出した、あるいは、見つめてきた思いに心を向けてみましょう。軽く目を閉じて、最初は肉の母親を思い浮かべながら、しばらく、時間を持たれたらいいと思います。そういうことを繰り返していくうちに、ふっと心が何かに触れるというか、何かを心は感じていかれるかもしれません。しかし、それが何であるかとか、そういうことにあまりとらわれることなく、そういうゆったりとした時間を持っていくということが大切なのです。要するに五官を閉じる時間を持つということです。
◎ 母親と心の対話
母親に使ってきた心は誰一人例外もなく凄まじいものです。だから、あなたはその母親のお腹を通って生まれてきたのです。生んでもらったのです。どれだけ間違い続けてきたか、あなたはあなたの心を見ていく中で自分の出してきた、出しているエネルギーを知っていくことでしょう。許せない、母親を呪って、呪って、殺してきた過去からのあなたの思いが浮かび上がってくるのです。私は生まれたくなかった、なぜ、こんな環境の中にこんな母親から生まれてきたのか、私は苦しいだけだったと、心が一斉に叫びます。たとえ、今世は肉的に整った環境の中に生まれてきて、どんなに羨望の眼差しを向けられても、あなたは間違いなく地獄の奥底から生まれてきたのです。だから、どなたの心の中もそのように荒れ狂っています。そうでなかったら肉を持って生まれてくる必要はないのです。
なぜ肉を持ち生まれてきたのか、みんな真っ黒だからです。その真っ黒な自分と出会っていくのが人生、肉を持っている時間、空間です。だから、地獄の叫びを自分の心で分からない人こそ不幸な人なのです。苦しんでいる自分にまさに出会っているのに、知らぬ顔をしている哀れで冷たい人達です。そして、もっとどうしようもないほどそびえ立っている人は、そんな自分に対して上から物申している方々です。立派で、素晴らしい自分があって、そこから教えを垂れようとしているのです。そんな方々はいくら意識の世界に通じていると豪語しようとも、所詮は真っ黒なエネルギーと通じ合っているに過ぎません。やはり、その方々から流れるものも冷たくて厳しい真っ黒な波動です。波動は正直です。波動は正直にあなた自身の今現在の心の状態を語っています。どんなに表面を取り繕っても波動はごまかせません。
◎ 生まれてきた意味
もう自分のために生きていきましょう。生まれてきたということは、あなた自身が苦しみの中から、ようやく手に入れたチャンスなのです。肉をもらうということをどれほど切望してきたか、みんな忘れ去ってしまっているのです。肉を下さい、私を生んでくださいとお母さんに願ったその思いというものは、ただひたすらに、この苦しみから自分自身を救い出したいと懇願してきたものです。
立派な人物にならなくてもいいのです。自分自身が生まれてきた本当の意味を心で知っていく人になってください。
強く生きるということはどういうことでしょうか。ひとつの信念、思想、信仰、信じるものを後生大事に抱え、それを頼みの綱として、清く、正しく、美しく生きていくことでしょうか。歯を食いしばって何くそと逆境をバネに必ず幸せをこの手につかむんだとか、あるいは、ひとつの目標を掲げて、それに向かって七転び八起きの精神で頑張っていくことでしょうか。
私は本当の優しさがどういうことか知らない人は、決して強く生きていくことはできないと思います。
そして、本当に優しいということは、相手にただ単に慈しみ、哀れみ、憐憫の情をかけるというのではありません。もちろん、優しく言葉をかける、優しい態度を示す、それはあなたの心の中に優しい思いがあるから、それを肉で表現すればそうなっていくのでしょうが、しかし、それは肉的な優しさであって、本当の優しさは自己供養という作業を通し、あなたの心の中からどんどん沸いて出てくるものなのです。そして、本当の優しさは自分が出そうとして出るものではありません。すなわち、自分を自分で受け入れていく作業を、自分の心の中でどんどん進めていかない限り、本当の優しさは分かりません。そして、その自己供養を通して沸き出てくる優しさというものが肉にもにじみ出てくる、それが言葉となり態度となっていくのが本筋だと思います。
◎ 自己供養:心を救う作業
ここでまた聞きなれない言葉、「自己供養」という言葉が出ました。
これまでに書いてきましたように、人生の目的はこの自己供養ということにあります。自己供養とはもちろん、造語です。自分を自分で供養する、すなわち、地獄に沈み込んで苦しみ喘いでいる自分に本当のことを伝え、ともに喜びの自分に帰っていこうとする作業です。
言うまでもなく、この作業をするには、まず自分の実態を心で知り、感じていくことから始めていかなければなりません。自分の実態とは、自分の意識の世界ということです。そのために心を見るということを伝えてきました。心を見せてくれる教材は、あなたの周りにはたくさんたくさん用意されています。それらのものを通して、間違ってきた自分、苦しんできた自分と出会っていくのが肉を持つ時間、いわゆる肉の人生だということも伝えてきました。
そして、その間違い続け、苦しみ続けてきた自分だけが自分であるのかというとそうではなく、本当の自分がちゃんと心に存在することも伝えてきました。
本当のあなたは、その心に真のパワーを持つ喜びの存在です。限りない温もりと優しさを心から放出できる存在なのです。それを押し止めて、そんな自分を捨て去って、無知とエゴと欲の中を生き続けて、真っ黒なエネルギーを垂れ流したまま、この宇宙に存在し続けてきた、それがあなた自身の今の実態です。そのあなた自身は、今もなお苦しみの底に沈み、彷徨い、救いを求めているのです。その自分を救っていく道を、ただひたすら歩いていくことが自己供養の道です。