心の闇がいとおしくなってきました


 ×の波動の中でエネルギーが爆発している感覚がして心がとても苦しくなります。田池留吉を思います。自然に苦しい心が解けて懺悔と喜びに変わっていきます。自分の恐ろしい心に出会うことはとても苦しいけれど、それ以上に嬉しいです。

 南無八大龍徳恩という題目に長い間慣れ親しんできた。約15年、宇宙の神として信じきってきた。11才の時から、受験や就職結婚などの時には少しでも自分にとって有利にと祈り念じ続けた。私は、神を信じているから、他のそこいらの人間とは違う、神に守られ愛され導かれている存在だから、すべての災難から、事故から、病から守られているという自負があった。神を信じない人間を哀れみ、馬鹿にし、自分は特別であるという思いを強くもっていた。教祖がいて神託を下していたが、恐れ入って聞く反面、あのくらいのこと私も修行すれば、わかるようになるだろう、もっと素晴らしい霊感者になってやるという思いがあった。私にはきっと素晴らしい霊的能力があると誇りたい気持ちをもっていた。その教祖から離れたのは母が遠のいたのと、教祖自身が病に倒れたため。しかし形は離れても、心はしっかり握っている、未だに、あの題目がふとした時に浮かんでくる。特別という意識、われは偉大なり、私は神の言葉をおろす人にかしづかれる人間になりたいという思いを膨らませていった。過去に大和の地で、確かに巫女をして、多くの言葉を時の権力者に伝えていたという思いがある。使われるものではなく、自分が頂点に立ちたいという思いから、殺害されたように感じている。20才くらいの時、その教祖の息子と結婚して、あの教団を継いでやるという思いもあった。その息子はハンサムだけど、霊的な面に関しては能力がなさそうで、私が代わりにという思いもあった。他にボーイフレンドができて、そんなことはばかばかしいと忘れてしまったけれど、もった思い、出したエネルギーは大きい。
 その後母は弘法大師信仰に入ったため、私も共に題目が、南無大師遍照金剛に変わる。観音信仰を同時にする。旅行にいけば札所があれば必ずお参りし、そんな札所に母をつれていくことが親孝行だと思っていた。使った心は同じで自分は特別、特別な能力がありきっと今にその力が現れてくるだろう、それを世間の人に認めさせ、評価されることを望んだ。己を表すこと、地位、名誉、世の中の政治家、経済人がこの能力を求めてくるような、そんな存在を夢みた。過去にしたことをまた今世望んでいた。
 神社、仏閣にお参りする時も、お願いにきましたという思いではなく、今われここに来たり、照覧あれ、とそこに祭られている神々を低く置き、自分を高きに置いていた。
 田池留吉に出会った時も、顔色の悪い暗い顔をしたさえない老人だな、こんな人に何ができるんだろう、こんな人、信じる気にもならんと、軽く見、見下げる思いを出した。最初のその思いを抱えたまま、10数年もきてしまった。肉ではなく意識であること、波動がすべてであることを、心でわかった時に、生き方が変わってくると確信している。田池留吉に対して出したさまざまな思い、エネルギーは簡単には供養しきれるものではない。過去から現在までその自分の出したエネルギーで何度も自分の足をすくわれ転んできた。
 今、これからなしていくこと、それは波動の世界を信じ、田池留吉を信じきっていくこと、それだけだと自分に言い聞かせている。

 H会で使った心  私達は特別な人間。正しく真っ正直な生き方。この世の他の人間たちはみんな間違っている。私達が模範を示さねば。かたち通りにやっていけば幸せは自分のもの。夫の立身出世、子供の進学すべてうまくいく。他の誰よりも幸せになれる。人には親切に、無償の働きをし、隠れたところで善行を積む。それが必ず自分に帰ってくる。親孝行、目上の人に素直になれば高く評価され、素晴らしい人という賞賛が待っている。頑張れば頑張るほど認められ、おのれの評価も上がってくる。雑誌には手記も載り顔写真も載りどんなに誇らしい気持ちになるか。私には他の人にない能力もある。この会の人は自然という言葉でごまかしているけど、私は神を知っている。神の力を威力を知っている。両方を手に入れることができたら私は鬼に金棒。この私の素晴らしさを見せつけることができる。私はこんな末席で終わる人間ではない。人を見る目がある人間がいるならば、私はとおの昔に見い出されているだろう。
 超能力も何もない人間の集まったところなど、おもしろくもなんともない。説教するな、偉そうに言うな、誰に向かってものを言っている。
 この会は序列の世界でした。求めていたものは肉の幸せ、地位名誉財産を重んじ、形の幸せを追求しました。すべての面において競争がありました。本の頒布数、お祝い金と称する寄付、どれだけ人より早く本部に出入りできるようになるか。内部は他人を責め、攻撃し、自分の正当性を主張するものの集まりでした。
 この時の自分に意識を向けるとがんじがらめにしばられた自分を感じます。冷たい氷の世界を感じます。肉的な素直さは、そこに押しつけ、我慢、忍耐がある限り、さらに闇のエネルギーを膨らませることでした。どれほど闇を撒き散らしたか、顔だけ善人面で、内面は夜叉でした。

 肉を基準にしていればすべてが虚しい、寂しい。もうどうでもよいと自分を破壊するエネルギーが湧いてくる。虚しい、寂しい心が他力の神を求めてきた、自分の肉を慰めるため、自己満足のため。自分の存在価値を認めさせるため、常に目は外に向いていた。自分の欲望のままに人を動かそうとしてきた。思い通りにいけば満足し、少しでも意に添わないと破壊する、切り刻むエネルギーを出してきた。自分にとって必要ないものは切り捨てる。母でも必要な時だけ求める対象で、不必要だしとなると邪魔にする心が出る。夫に対しても自分にとって利益になればよい夫、自分にとって都合が悪ければ消えろというエネルギーをてきた。神も同じだ。利益を求めて宗教を渡り歩いた。すべて肉を基準にしていた。幸せの基準はすべて自分が一番、一番でないと納得いかず、責める、攻撃する、ひがむ、妬む、引き摺り下ろすとさまざまな心を使い続けた。田池留吉は当然、目の上のたんこぶ、邪魔な存在、これを何とか粉砕しようと、闇のエネルギーを結集して対抗した。第一の危機も同じエネルギーをもつものが集まった。あいつさえいなければ、あとは自分が一番だと。過去、そして3億6千年の歴史はすべてが肉を基準にしたものだった。意識の転回なくしては、本当の幸せはやってこないという田池留吉の言葉をいかに上の空で聞いていたか、頭だけで理解していたか思い知らされる。
 人間の本質は意識であると、耳にたこができるほど聞いてきたが、自分流に捉えていただけだった。田池留吉の伝えんとするところを、まったく理解できていなかった。
 長い間共に学んできた人の顔が見えないと、心が痛む。自分の中にさんざん迷い、また神を捨てかけた心の癖を闇を握っているから。紙一重のところに、崖っぷちにたっている自分を何度も感じたから。そんな時自問自答する。意識ですか、肉ですか。今のあなたの基準は何ですか。
 肉を基準にした人生はもうやめていこう、もう迷いはないと、15年目にしてやっと思える自分が余りにも愚かだけれど、嬉しい。

 今回(石川)は支配の思いについて強く見せられたセミナーでした。
 ×の現象では手が竜の爪のように、顔は般若のようになり「私を裏切ることは許さない。私を裏切ることは決して許さない。私を裏切ったら殺してやるー。私を裏切った奴は八つ裂きにして殺してやるー」という叫びが出てきました。これが私を支配している闇の意識、そして私自身から流れている波動でした。
 闇出し現象でも「絶対に私は崩さない。絶対に私は自分を自分を崩すものか。何があっても、たとえ死んでも崩さないぞー」という思いや「誰も受け入れない。受け入れたら私は崩れる。だから私は誰も受け入れはしない。ここまではいいが、ここからは立入禁止だ。誰も入ってくるな。誰も私に近づくなー」という思いが何度も出ました。
 そして一緒に間違ってきた仲間を責める思いにも気付かされました。人を責め裁くことで自分を正当化しようとしていました。「あの人は間違っている」と、自分の過ちを棚に上げて矛先を相手に向ける思いは、自分の過去を受け入れようとしない思いでした。

 気付けば、私は過去世を喜びで受け入れたことがありませんでした。過去世が出てくる時、まず最初に出てくる思いは「イヤ」でした。過去世を供養するということは私にとって苦痛以外の何モノでもありませんでした。でも避けても無視しても結局は苦しいだけだから、いつもしようがなく嫌々だけど向き合っていくというプロセスを辿ってきました。その度に「拒否する心が苦しいのであって、最初から受け入れればこんなに苦しむ必要はないんじゃないだろうか」と感じるのですが、今まで一度も初めから「いらっしゃ〜い」と温かい思いで抱きしめたことがありませんでした。「出来る事なら出てこないで欲しい。願わくば出てこないで欲しい」この思いが私の心に常に流れていました。この思いが私の基本となっていました。日常生活でも過去世を思い出させる人を避ける思いが強く出ていて、振り回されないようにするのが精一杯な状態です。でも先生のホームページを読んでいたら、過去世に対する思いが根本的に間違っているという事を気付かされました。温かい思いで過去世を受け入れられたらどんなにかいいだろうと思います。私も真剣に自己供養をしていかなければ、していきたいな、と思いました。
 それからもう1つ、強く見せられた思いはPさんを通してでした。現象中にQ夫妻の脇に座っているPさんが気になって、ついつい目がそこに行くのです。「普通のオバちゃんだな。」という思いでチラチラと見ていました。でもそうしているうちに「話をしてみたい、お近づきになりたい」という思いでいる自分に気がつきました。心が惹かれているのです。ヤバイなーというよりもショックで動揺というか愕然としてしまいました。そんな自分を責めそうになりましたが、心を見ようと自分の思いに意識を向けたらば「立派になりたい、素晴らしくなりたい、あなたの元でそうなれるのなら、私は喜び勇んであなたの元にひざまづきましょう」という思いが即座に出てきました。この思いに気がついた瞬間に先生にテコ入れをされて飛び出しました。そうしたらいつも一緒に「私は立派、素晴らしいー、この思い出して行きましょうー」と、働きかけてくれるRさんが目の前にいて、思わず飛び付きながら「この思いでした」と叫びました。自分の中から出てきた思いはショックでしたが、それが私の心の状態なわけだし、先生がいるうちにこういった思いに気付けて良かったなとも思いました。そして何より今、道標があって本当に良かったと実感しました。道標がなかったらフラフラ迷子になって、せっかく出会えた真実の道から外れてしまうのはアッという間だと感じた体験でした。
 1つ1つの思いは強く感じるのですが、まだ自分の中でバラバラな感じです。でも、本当は全部つながっているというのも感じているので、これからが楽しみです。まるでそれはパズルをやっていくような気持ちです。楽しんでやっていければいいのかなと思いました。

 おまえが一番偉いのだから、賢いのだから、人の言葉に耳をかすな。人の言うことなど聞くなと闇が私にささやきかける。そんな闇に支配されてきた。おまえが法だろう、経典だろう、それを崩してはならない、田池の言うことなどもっての外、田池の言うことを聞いたら、おまえの破滅につながるぞという闇の意識。私はそれに従ってきた。表面を取り繕い、さも実践していますとごまかしたところで、田池留吉に通用するわけがない。だんだん見透かされていると思うとそばによるのが恐くなった。話をするのが恐くなった。私は以前から電話をかけるのがいや、直接会話することが恐く、FAXやメールで用事をたしてきた。波動を知られるのが恐かった。ごまかしきれないのに、何とかごまかしてやろうとしていた。私は素晴らしいんですという姿勢を崩したくなかった。私が自分自身を知る以上に、すべてをご存知の田池留吉が存在していたことを知る。もうまいりました、申し訳ありませんでした、いかに自分自身が愚かで、神をそして自分自身を愚弄していたか、気付かぬふりをし、認めたくありませんでした。素直さのかけらもない自分自身をあらためていきます。

 今回石川セミナーでは私の中でとてつもなく大きな壁に打ち当たって、心の転回を指し示されたように思えました。
 ×に向くといきなり地獄に堕ちた自分自身に直面し、どうにもならない、どうすることもできない、怒濤のごとく叫び、心に広がるのは絶望に近い悲しみ、苦しみ、これが現実の私の状態なのだということを見せられました。自己供養も過去世の供養も微塵もない、何一つ伝わらないという現実がありました。
 いつもなら終われば、すっきりとした心になって、軽くなっていたのが、今回ばかりは気分が悪く、吐き気と重圧感が残り、身の置き場のない感じが何時までも残って苦しい。
 そして、指を指され、「田池死ね」と立ち向かっていく人たちばかりが次々に引きずり出されていっていました。これも自分の姿なんだと思う思いが、形だけの中身のないものだったという衝撃が次の瞬間に自分に向けられた先生の指さしで気付かされました。
 約一周回ってこられた後、指を指され、私の中にその思いがありますよと突きつけられた気がしました。言いようのないショックで落雷に打たれたように電流が全身を貫きました。
 飛び出していったものの、自分自身が認めたくない、認められない、何処にそんな思いがあるのかとパニックになっていました。そして情けなくて、情けなくて悔し涙が流れていました。
 現象が終わり、セミナーから帰った今もこの大きな壁に打ち当たったままいました。先生のホームページの反省とかいろいろと読みながら、その中に書かれた思いの数々に本当に素直な思いを感じました。こうして出していけたら喜びが涌いてくるのかと思いました。改めてなんにも分かてない自分自身に出会って、苦しみの中に、地獄の中にいる自分に申し訳なく思いました。こんな自分が何を偉そうにして、大手を振って歩いていたんだろうと思うと、穴の中に入りたい心境です。とても心を見て反省してますとは、学んでますとは言えません。自分の無知とエゴの姿を改めて見せていただきました。
 それからこんな私でも暖かい思いで待っててくれているという思いが反面一杯に広がる、この不思議な思いに包まれていました。
 まだまだ入り口にも至ってないということがはっきりしました。もう一度やり直しです。間に合わなくてももう気にせず、もう一度やり直します。心からうれしいと言える私になるまで……。

 肉を救う心を、肉に執着する心を今回はいやというほど体験した。体が健康でなければ、心など見れるか、とにかく救って欲しい、助けて欲しい、田池は何をしている、何の役にもたちはしないではないか。何でも意識意識と言うけれど意識じゃ解決できないものもたくさんある。もっと体を大事にしておけばよかったと後悔とこの学びに対する疑問を膨らませる。心を見ろと言うけれど、とってつけたような反省などするものか、田池に電話するなんて、救いを求めているようなそんなみじめなことができるか。身動きできないような人間を自業自得だと、心を見る良い機会だと冷たく突き放すような人間が本当に愛の人か、友かと恨む心、責める心が出る。先生の言われる優しさなんて冷たい世界だと思う。家族のぬくもりを知らない人間の言うことだと思う。
 でも肉の優しさを求めて他力の世界にどっぷりつかってきた自分の心が見え隠れする。人からの優しい言葉を求め、いたわりを求め、それが満たされれば善しとし、満たされなければすぐ攻撃の心を出す自分を見る。自分を救うということを頭では知っていても、心は肉を救って欲しいと叫んでいる。結局、他力の心のままに10数年を過ごしてきただけだと知る。ギブアンドテイク、テイクテイクの世界にどっぷりつかっていた自分の心が見える。人と付き合うのも、親しくするのも、自分にプラスかマイナスか、損か得か、メリットがあるか否か、それを上手にベールに包んで、何食わぬ顔をして過ごしてきた。失うものよりも得るものが少しでも多ければそれで善しと自分の道を選択してきた。そこに必ず人に頼る心、依存する心があった。自分の肉を向上させる、より良い立場に置くためには、何でも利用できるものは利用しようという思いがあった。そんな自分の心を置き去りに人を責める、恨む、ひがむ心ばかりを使い続けてきた。

 自分がとても人間関係などでいやな思いをした時に、自分は正しい、間違っていない、間違っているのは相手だ、それが正しく認識されていないと思った時に、ふと出す思い、神はすべてを知っている、だから……
 きっといつか相手に天罰が下るだろう……それにこめられた呪いの凄まじいエネルギーを放置してきた。神は自分に味方してくれるもの、自分に代わって相手に制裁を加えてくれるもの、自分だけを守ってくれるものであった。神はすべてを知っているという思いの裏側に、正しいのは私、私は法律、私以外の存在を許さないという思いがあった。
 小さい時から、お天とう様が見ているから、悪いことをしてはいけない、いいことをしていればきっとその見返り、褒美がもらえるというギブアンドテイクの世界の住人だった。自分だけの幸せ、人よりも何倍もの幸せを望み、人の幸せは妬み、不幸を喜ぶ心を使った。天罰が下るだろうは、あんな目障りな人には天罰が下ればいいのに、不幸になればいいのにという、人をひきずりおろす、抹殺する思いであった。神、仏に祈る時、そんなエネルギーを使い続けていた。
 これまで学んできた自分の心を見ていると、ここでも同じ心を使っている。誰にも負けたくない、自分が一番でなければいけないと、妬む心、ひきずりおろす心、無視する心を使ってきた。人の幸せを一緒に喜ぶ顔をして、内心は悔しさ、怒りを膨らませてきた。人の評価を求め、賞賛を求め、人の顔色を見て、苦しみを膨らませてきた。
 この学びを肉を基準にいくらしても、少しも変わっていけないことを、やっと少しずつ心で納得していくのに、どれほどの時間を費やしてきたか、素直になれなかった自分を思う。

 今までの人生はいかに自分を立派に見せるか、肉の幸せをどれだけ獲得するか、それを人と比較して、喜んだり、悲しんだり、苦しみを増幅させる人生だった。この学びに入ってからも同じような心を使い続けた。本気で意識の転回をする決意がなかった。意識の転回ということ自体、よく理解してはいなかった。自分に都合のよいところだけを、いいとこどりしていた状態だった。タイケトメキチは私にとって題目のような、タイケトメキチと思っていれば、何とかなるだろうというお粗末なものだった。それは長い間、他力信仰でつけてきた、心の垢だった。反省ということも今までの他力とこの学びではまったく違う代物であったことを実感する。肉を基準にした反省は反省でもなんでもなくかえって闇のエネルギーを増大させていることが多いことに気付く。肉の反省は己を表す、己を誇る心の裏返しでそれを何度もやってきた。私にはこんな謙虚さが、こんな環境の中でもこんなに感謝する心が、喜ぶ心があるんですと。その裏側には何と私は素晴らしいのか、けなげなのか、この私を認めなさいという思いがあった。この学びで初めて原因と結果の本当の意味を知った。この学びで本当の反省、愛、喜び、優しさとは何かを知った。今までしてきた他力とは似ても似つかないものなのに、私は同じ視点に立って、マンネリでやってきたという後悔が残る。
 波動音痴がゆえに、田池留吉をないがしろにし、その愛に背を向け続けてきた自分であったか。肉の自分の小さな基準でしか、田池留吉を見てこなかった自分を情けなく思う。
 でも待っててくれる大きな存在がある。その懐に飛び込んでいこう、いらないものはすべて捨てて。
 初めて心から、田池先生申し訳ありませんでした。私が間違っていました。この学びは真実でした、ありがとうございますと言える。それが嬉しい。

 私は霊言集が好きだった。宇宙からのメッセージ類でアダムスキー、シルバーバーチなどをよく読んだ。巷の拝みや、既成の宗教ではあきたらず、何か別のもの、大きなパワーを求めていた。これからの時代、そんな力がこの世の中を制する、リードするという思いがあった。自分も必ず、そんな力を身につけて宇宙と交信し注目され、認められ、人の上に立ちたいという思い。闇のエネルギーをまきちらすことだなんて考えもしなかった。私は特別だから、きっと宇宙のどこからか私のような人材を探しているだろうというそんな思いもあった。なんとなく恐怖を感じる反面、いや私は神に守られているからと、そんなところでも他力の心を出していた。
 夜星空を眺めては、UFOは飛んでいないか、何か通信は聞こえてこないかと、興味本位、欲の心で、宇宙へ意識を向けていた。私にとって宇宙人とは、何か特別なもの、地球人類がまだ未開発なものを有し、その利益を与えてくれるものだった。宇宙人と仲良くしておけば、何かメリットがあるかもしれないと、姑息な思いももっていた。余りにもお粗末で恥ずかしい。
 闇に向ける現象で、その自分の思っていた宇宙へ意識を向けると、目が回り立っているのもつらい、渦に巻き込まれ押しつぶされそうな重圧を感じ、吐き気すら感じる。そんなものに心を向け支配されていた自分だっと、あらためて思う。過去関わってきた宗教も、大宇宙大神霊仏よ、宇宙創造の神、南無八大龍徳恩など、宇宙のパワーと結びつくものが多かったのを失念していた。

 自分を素晴らしく見せるために、大きく見せるために、様々な心を使ってきた。自分を大きく素晴らしく見せないと自分の存在が危うくなるという恐れの心がどこかに存在した。そのために人よりも優れているところを自分自身の中に必死で見出そうとした。競争する心、比較する心、それは自己満足だけではなく、自分の存在をどれだけ人の心に印象づけられるか、それによって得られるものを賭けた戦いだった。過去ずっとそんな心を使い続け、今世も同じような心を使い続けた。学校生活、社会生活の中で、人よりも優れ、認められることが、自尊心を満足させ、また自分自身の生きる道だと信じていた。さして努力もしないくせに、人の後ろを歩くこと、負けることはいやだった。そのために他力の神を利用しようとした。力を与えて欲しいと念じた。肉を生かす欲の心のために、タイケトメキチの心をおきざりにし、心の中から抹殺してきた。それが苦しいとも感じないほど麻痺した状態だった。
 今世、田池留吉に出会い真実の道を示されても、おいそれとは自分の気持ちの切り替えもままならず、自己流の学びに終始してきた。田池留吉に対して、自分の立場がもろくなると、自分が必死になって得たものを、いとも簡単に捨てなさいという田池留吉を余計なことを言う奴だと憎み、誹謗する心をつかった。少しでもあらを探し、こんな人の言うことを聞いていたら、だめになる、早く見切りをつけたほうがいいと自分にささやきかけた。人にこの学びは難しいねと言う時、田池留吉を否定する思い、これだけやってわからないなら、もう先も見込みがないからいいかげんにやめておこうよという闇の誘いかけが奥底にあったように思う。逆らい続けてきた人生、タイケトメキチを忘れきってきた長い年月も、今この時を得て変わっていける。
 やるかやらないかは本人次第という先生の言葉が、冷たいと思っていたが、優しい暖かな温もりとなって伝わってくる。許され続けてきた自分を感じる。

 過去にやってきた宗教の教えで、人間には穢れ汚れがたくさんあって、それが不幸の源だから、その穢れを払い清めることによって幸せになれるという言葉を信じ、祝詞や、祈りの言葉を唱えてきた。心を見るということも、自己供養も知らず、ただ、ひたすら念じ、祈っていれば幸せになれると信じていた。また、自分に不幸をもたらす霊を追い払うという愛のない方法でさらに自分の闇を深くしてきた。自分に冷たいなんて思わなかった。霊を封じ、さわりをとってくれる人を求め、自分もいつかそうなりたいと思った。そんな力が欲しいと思った。感謝され、お金になり名声を得られると思った。根っからの拝みやの素質充分、教祖の素質充分、そんな心を使い続けてきた。チャネラーになっても、そんな心が下地にあって、皆に注目されたい、的確な指示を出し、誰も知らないことを予言し、あのチャネラーは一味違う、素晴らしいと評価されたいと願った。
 耳に優しく言葉を飾り、人にどんな風に評価されるかを気にし、雑音と肉の思いをごちゃ混ぜにしたチャネリングを重ねてきた。自分がそうだから人のチャネリングも余り信じられず、チャネリング自体を軽く捉えてきた。それは田池留吉を軽んじる心に通じていた。
 何の言い訳もできないほど、すべてにおいて間違っていた。過去の他力の宗教とこの学び、似ても似つかないものなのに、同じ場に立って学び続けていた愚かさを今感じている。
 私にとって神とは力、権力、制圧、支配そのものであり、自分はその具現者になりたいという思いをずっと過去から使ってきたと思い当たる。
 田池留吉とは正反対の場に立ち、矢を射続けていた私でした。

 ドンとビンの心の風景

  はじめに戻る